2022年11月11日
豊後竹田駅 | 豊後竹田駅 |
広瀬神社 |
豊後竹田駅の観光案内所についたのが、15時半過ぎ。、電動自転車を借り、
17時までに戻ってほしいと言われた。急いで向かう。坂が急であったが、電動だったので助かる。
土産屋 | 大手門へつながる道 |
岡城は梯郭式山城で、臥牛城(がぎゅうじょう)、竹田城(豊後竹田城/ぶんごたけたじょう)とも呼ばれている。
大手門へと続く急な階段と特徴的なのがカマボコ型石塁。加藤清正の
意見により大手門は西に移されたそうで、古大手門と大手門がある。
城の北を稲葉川、南に白滝川を天然の濠として、その二本の川に
挟まれた標高325メートルの台地上にある。
城代屋敷跡 |
豊後(大分県の大部分)の守護だった大友氏の一族で家臣、志賀氏の居城
だった岡城は、薩摩(鹿児島県西部)の島津氏との争いの舞台にもなった。
堅城である岡城を島津軍は落とすことができなかったが、豊臣秀吉から
朝鮮出兵時の失態を問われた大友義統は、文禄2年(1593)に改易され、
すると志賀氏も排除されてしまう。その後、播磨(兵庫県南西部)から
中川秀成が7万石で入封。岡城を総石垣の近世城郭として整備し、
以後、明治維新を迎えるまで270年以上にわたり、中川氏が城主となった。
切込ハギで積まれた太鼓櫓門の石垣 |
阿蘇溶岩台地を流れる白滝川と稲葉川にはさまれた
標高325メートル、比高96メートルの段丘上に築かれた岡城。
二の丸に建つ瀧廉太郎像 | 岡城天満神社(本丸跡) |
少年時代を父の故郷である大分県竹田市で過ごした瀧廉太郎は、荒れ果てた岡城で
遊んだ記憶が強く残っており、そこから名曲「荒城の月」のイメージを得たと伝えられている。
岡城天満神社は中川藩主が守り神としてきた神社で、御祭神は菅原道真公。
平成の大改修(2016年3月)で建て替えられた。
御三階櫓跡 | 金倉跡 |
本丸には天守にあたる三重櫓や御金倉のほか、藩主の居住を中心とした
殿舎であったと考えられている。周囲より一段と高くなった本丸に当時の建築物はない。
二の丸休憩所前 |
三の丸の高石垣 | 事実上の天守だった御三階櫓の石垣 |
岡城の特徴は「車軸築」(くるまじくきづき)中心の軸となる大きな石のまわりに石がぐるりととりまいている
岡城は断崖絶壁の城なのに、石垣の端に柵がもうけられていない。
西の丸御殿跡 |
西の丸御殿には隠居後の居住地として、その後公式行事や藩政の執務に利用されてきたと考えられている。
大手門と紅葉 | 大手門 |
古大手門跡 |
三の丸の高石垣