岡山 

2014年10月19日

   
路面電車(岡山駅前 ) 路面電車(東山 )

岡山国際ホテルで研修を終えた後、岡山駅まで路面電車に乗り、お昼を食べて、バスで後楽園前まで乗り、

後楽園と岡山城を見学して、路面電車で岡山駅に戻った。

   
岡山駅近くの商店街   岡山駅前

研修後、岡山駅まで一旦戻る。大原美術館が、次の日の月曜日でも開館をしているか聞くため、観光案内所に立ち寄る。

前日宿泊したlホテルでは、あいまいながら休館日であるといわれてはいたが、この日は倉敷に泊まる予定だったので、

次の日にじっくり見たかったので、再度確認をした。調べていただいたら、10月は休館日なしということだった。

それでは、この日は、岡山見物で後楽園と岡山城に行くことにした。コースとしてはバスで後楽園前まで乗り、

後楽園の正門に入り、南門まで歩いて、岡山城に向かうといいといわれたので、そのコースにした。

   
ばくだん屋の店内   ばくだん屋の中華そば

予定が決まったら、お昼を食べることにして、ばくだん屋に入り、ラーメンを食べた。

   
 バス 桃太郎像 

桃太郎像は岡山駅東口に立っている。猿、キジ、犬を連れている。

岡山駅東口からバスに乗って、後楽園入口まで行く。途中、天満橋駅を経由したのでぐるっと回った感じ。

   
竹久夢二の小唄碑  後楽園正門前 

後楽園前バス停脇の旭川寄り緑地には、竹久夢二の小唄「まてど暮せど 来ぬひとを 宵待草の

 やるせなさ こよひは 月も出ぬさうな」と刻まれた碑があった。

岡山後楽園は、今から約300年前に岡山藩2代藩主池田綱政[いけだつなまさ]が藩主のやすらぎの場として作らせた庭園

明治4年(1871)、池田家では「御後園」を「後楽園」と改め、17年には名園保存を目的に岡山県に譲渡。

   
   

   
延養亭   延養亭近くから望む 唯心山

無料ガイドの方がいらして、説明をしているところを横で聞いていたら、延養亭からの眺望が一番であるといって、

私も一緒に案内をしてくれた。延養亭は、藩主が後楽園を訪れた時の居間として使われた建物。

藩主の座る主室からの眺めが最も美しくなるように、庭園が作られている。戦災で焼失したが、昭和35年、

築庭当時の後楽園を描いた「御茶屋御絵図」を元に、当時第一級の材料を集め、最高の技術によって復元された。

現在は一般公開がされていないが、室内からみると、池があり、その先に園庭の眺望が素晴らしいとのこと。

   
延養亭近くから望む眺め  

   
   廉池軒


   
 唯心山からの眺め 唯心山から望む沢の池 

唯心山は池田綱政(いけだつなまさ)の子、継政(つぐまさ)の時に築かれ、平面的だった庭園が立体的な景観へと変化した。

   
 唯心山からの眺め 唯心山からの眺め 

   
唯心山からの眺め   廉池軒

、廉池軒は、築庭を指示した藩主池田綱政がもっとも好んで利用していたといわれている。

   
岡山城   廊下門

岡山城は、豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて築城し、

8年の歳月を費やして建造され慶長2年(1597)に完成した。西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を

流れるように改修し、天然の外堀に活用している。天守閣の壁に黒漆塗りの下見板を取付けるこの時代の

特徴から外観が黒く、後の時代には「烏城」とも呼ばれている。関ヶ原合戦で敗軍の将となった秀家は、流配先の八丈島で

城主よりも長い期間の余生を過ごした。そして、関ヶ原の戦い後、小早川秀秋が城主となったが、2年後、21歳の若さで

亡くなっている。秀秋夭折(ようせつ)後は幕藩体制の下で岡山城は岡山藩の城府となり、

池田家を藩主として明治維新に至る。城は、昭和20年に市街地空襲により、消失。昭和31年に再建されている。

三重六階からなる天守閣と不等辺五角形の天守台となっている。

老家紋は本丸の搦め手にある城門。城門奥の石段上は「中の段」。門扉の上に敵を迎え撃つための部屋を備えていた。

部屋は本段と中の段を結ぶ城主専用の廊下としても使用されており、廊下門と呼ばれていた。現在の門は1966年に再建

   
廊下門脇の石垣   平成5年の発掘調査で発見された
宇喜多氏築城時の石垣

豊臣時代の城が、増改築をされて江戸時代にも引き続いて使用されたため、石垣に構築技法の発達の様相が示されている。

築城時の「野面積(のづらづみ)」から江戸時代初頭「打込ハギ(うちこみはぎ)」、その後の「切込ハギ(きりこみはぎ)」と

各時期の石積みが観察できる。特に本丸本段の野面積による高石垣は、この時期の全国有数の遺構である。。

   
 不明門 天守閣の礎石 

「不明門(再建)」を通り抜け、石段を上りきった天守閣のある上段は「本段」と呼ばれ、城主自身の生活に必要な建物が

立ち並んでいた所で、築山や池のある庭園も作られていた。

天守閣は昭和20年6月の戦災で焼失し、昭和41年に元の位置に鉄筋コンクリートで再建されたため

礎石のみを移し、元の通りに配置している。

   
 天守閣入口 天守閣より岡山国際ホテルがみえる。 


   
天守からみた 後楽園と旭川 天守閣から望む鯱鉾 


   
備中高松城の水攻め   岡山城

岡山城内で、秋季特別展「黒田官兵衛の奇策―備中高松城水攻め」が開かれていた。

羽柴(豊臣)秀吉が織田信長の命を受けて向かった高松城。攻めあぐねた秀吉は官兵衛の建策を

採用し水攻めを行った。堤防を築き川の水を引き入れて高松城を湖に浮かぶ城へと変えた。

天下の奇策とも言われる高松城水攻めを紹介していた。

   
  二の丸(西の丸)跡