2018年1月2日
岡崎城天守 | 広場 |
岡崎公園は、岡崎城の城跡を公園にしたもので、岡崎城や三河武士のやかた家康館を中心とした公園。
面積は、約10ヘクタールあり、広大な園内には、旧城そのままの白亜の天守閣がそびえ、城塁、内堀や家康公
ゆかりの史跡等も多く、家康公と三河武士の生きざまを展示した歴史資料館、三河武士のやかた家康館などがある。
さらに、二の丸能楽堂、巽閣、茶室葵松庵・城南亭、からくり時計、徳川家康公銅像、龍城神社、元康像、五万石藤などある。
芭蕉句碑 |
芭蕉句碑「木のもとに汁も鱠(なます)もさくら哉 はせを」
元禄三年三月二日伊賀の小川風麦亭において 風麦、土芳立と歌仙を開いた時の
八吟四十句の発句である、とのこと。龍城神社から巽閣に向かう道の脇にある。
龍城神社(たつき神社 ) | 龍城神社(たつき神社 ) |
龍城神社は、東照宮と映世神社を合併した社で、祭神は徳川家康公と本多忠勝公の2柱。
当初岡崎城内本丸に東照宮が祀られ、その後、明和7年(1770)忠勝の直系忠粛が
城主のとき、三の丸に移転し家祖である忠勝を合祀している。
神社の拝殿天井には木彫りの龍が飾られている。龍城神社で今年の初詣を行う。
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、 不自由を常とおもえば不足なしこころに望おこらば困窮したる 時を思いだすべし、堪忍は無事長久の基、いかりは敵とおもえ 勝事ばかり知りてまくる事をしらざれば害其身にいたる、 おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過たるよりまされり。 慶長8年正月15日 人はただ身のほどを知れ草の葉の露も重きは落つるものかな。 |
|
東照公遺訓碑 | 東照公遺訓碑 |
家康公遺言 | 家康公と本多忠勝の顔出しパネル |
岡崎城の沿革
岡崎城の起源は15世紀前半まで遡ります。明大寺の地に西郷頼嗣(稠頼)によって築城されたのがそのはじまりです。
その後、享禄4年(1531)に松平清康(家康の祖父)が現在の位置に移して以来、ここが岡崎城と称されるようになりました。
天文11年(1542)12月26日、徳川家康は、ここ岡崎城内で誕生しました。家康は、6歳で織田信秀(信長の父)、
8歳で今川義元の人質となり、少年期を他国で過ごしましたが、永禄3年(1560)の桶狭間の合戦で、今川義元が
戦死したことを契機に自立しました。ときに19歳。以来、岡崎城を拠点に天下統一という偉業への基礎を固めました。
元亀元年(1570)、家康は本拠を遠江浜松(静岡県浜松市)に移し、嫡男信康を岡崎城主としました。
天正7年(1579)に信康が自刃したあとは、重臣の石川数正、ついで本多重次を城代としました。
天正18年(1590)に家康が秀吉によって関東に移されると、秀吉の家臣田中吉政が城主となりますが、
家康が江戸に幕府を開いてからは、譜代大名にここを守らせました。
江戸時代、岡崎城は「神君出生の城」として神聖視され、本多氏(康重系統)、水野氏、松平(松井)氏、
本多氏(忠勝系統)と、家格の高い譜代大名が城主となりました。石高こそ5万石前後と少なかったですが、
大名は岡崎城主となることを誇りとしたと伝えられます。西郷氏が築いた当初の岡崎城は、砦のようなもので、
城域も本丸程度であっただろうと考えられますが、家康の頃までには近世の城郭としての原型ができあがりました。
田中吉政は、大規模な城郭の整備拡張を行い、文禄元年(1592)に、城の東・北・西に総延長4.7kmに及ぶ
総堀をつくりました。また、元和3年(1617)本多康紀のときは、三層三階地下一階で、東に井戸櫓、
南に附櫓をもつ複合天守閣が建てられました。城郭の整備にともない東海道が城下に引き入れられ、
慶長14年(1609)には伝馬町ができて、岡崎は東海道有数の宿場町として繁栄するに至りました。
明治維新を迎えると情勢は変わり、新しい時代には不用とされた城郭の大部分は明治6年から
7年にかけて取り壊されてしまいました。 このあとは、堀と石垣が昔日の面影をわずかに伝えるばかりで
ありましたが、岡崎の象徴である天守閣がないままではしのびないとする市民の思いは強く、
昭和34年(1959)に、ほぼ昔どおりの外観の天守閣が復元されました。
いにしえ、東海道を往来する旅人が仰ぎ見たであろうその姿を、今我々も眺めることができます
|
|
東南側からの眺望 | 名鉄電車もみえる。 |
東南側からの眺望では、、手前の屋根は城に隣接している龍城神社とその施設のもの。
奥の茶色の建物は、「岡崎ニューグランドホテル」
旧岡崎城の用材とくぐり戸 | おみくじ売り場 |
おみくじをして、「大吉」が出る。
旧天守の心柱の礎石 | 桜茶屋 |
天守1階に展示されていた心柱は3階まであったと考えられている。
天守の東側に【隠居郭】(曲輪)というのがあり、城主が隠居後に住んだという説からこの名前が
付けられたそうだが、この隠居郭に2件の飲食店がある。このうちの一軒、「桜茶屋」で昼食を食べる。
子どもたちはきしめんを食べ、私は味噌カツ定食を食べる。
きしめん | 味噌カツ定食 |
徳川家康出生の産湯の井戸(左) | 本多忠勝の銅像 |
東照公産湯井の先には、館があり、そこで徳川家康(竹千代)が産まれたそうだ。
右側には「東照公えな塚」がある。"えな"とは胎盤(へその緒)のこと。
本多忠勝は徳川四天王のひとりで、豊臣秀吉に「家康に過ぎたるもの」「天下無双の勇士」と
賞賛された勇将。この銅像は、有名な鹿角兜と甲冑で身を固め、名槍蜻蛉切を携えている。
からくり時計塔 | グレート家康公「葵」武将隊 |
三河武士のやかた家康館の近くには、からくり時計塔と呼ばれる時計塔が設けられている。
定刻(毎時0分、30分)になると能装束の家康(人形)が能を舞い、最後に遺訓を語るというもの。
グレート家康公「葵」武将隊 |
三河武士のやかた家康館の前で、グレート家康公「葵」武将隊の演武やトークショーを観た。
悲願の天下統一を果たし、264年の長きに亘る泰平の世へと導いた徳川家康公。
そして家康公を支えた徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・井伊直政・榊原康政)と
その家臣たち。激動の平成の世に、戦国武将が、家康公のふるさと「岡崎」に甦った。
今回の登場は酒井忠次、井伊直正、榊原康正の3名である。
大手門 | 岡崎城下東海道二十七曲がり |
岡崎公園の玄関口には大手門が構えられている。これは再建されたもので、かつての大手門は別の場所にあった。
岡崎城の外堀の中を27カ所曲がって東海道が通ってた珍しい城。
徳川家康公銅像 | 由比パーキングから望む |
帰りの東名高速道路は渋滞にはまってしまったが、途中、富士山がよく見えた。