大阪城 

2016年11月29日


大阪で研修があり、研修が終わった後、大阪城に行く。大阪城まで研修でスタッフをされた方に車で送っていただく。

   
紅葉の時期   六番櫓

南外堀の石垣は徳川幕府の大坂城再建工事の最終段階で築かれたものであり大変見事な高石垣となっている。
この出角の上に残る二つの隅櫓の一つが六番櫓である。もともと南外堀に面した石垣上には東から順番に一番から
七番まで7つの櫓が立ち並び、白壁に屋根瓦の土塀がそれらを連結していた。四、五、七番櫓は戊辰戦争時(1868)の戦火で、
二、三番櫓は昭和20年(1945)の米軍空襲によって焼失し現在では一、六番の二つの櫓を残すのみとなっている。

   
千貫櫓と多門櫓  大手門

   
桜門  豊臣秀吉築城の大坂城

本丸への正門として造られた桜門は、天守閣の真南にある。豊臣時代に、このあたりに美しい桜並木があったことから、
桜門と名付けられたそうである。明治維新によって焼け落ちてしまい、現在の桜門は明治20年(1887年)に当時の陸軍が再建したもの。

1496年、大坂に初めにお城を築いたのは、浄土真宗本願寺派中興の祖といわれる蓮如である。
そのころ浄土真宗には蓮如の功績で多くの門徒が集まり、一向宗として名高い結束集団に成長した。
大坂は寺内町として隆盛を誇り、当時の石山本願寺は堀、石垣、土塁、塀をめぐらせ、城そのものだったようである。
蓮如の死からおよそ70年後の1570年、蓮如の曾孫にあたる顕如は、一向宗に圧迫を与えるようになっていた
織田信長と交戦状態に入る。それは11年におよぶ長い戦に発展。1580年、ついに信長との和睦に応じた
顕如と一向宗徒はこの地を去った。築城にあたり、大阪は「日本一の場所」と言い残して他界した織田信長。
その遺志を引き継いで、豊臣秀吉は天下統一の拠点として、大阪城を築いた。
大阪城は、周囲を湿地帯に囲まれた、上町台地に築かれた。
位置的には、大阪駅の南東に大阪城があり、そこが上町台地の北端にあたる。

   
大坂夏の陣 大阪城落城   徳川幕府再築の大阪城

秀頼は、1598年5歳の時に父秀吉が亡くなったあと伏見城から移り、23歳で自害するまでここに住む。
1614年秀頼と淀殿は、徳川との決戦を覚悟し籠城、15万とも20万ともいわれる幕府勢に「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の二度にわたって
攻め立てられ、1615年ついに豊臣政権は息の根を止められた。ここに、栄華を極めた豊臣家は滅亡し、比類なき大坂城は灰になった。
現在、豊臣期の大坂城は土の下に埋もれている。石垣の積み方や石の刻印などから、江戸幕府が堀や石垣に至るまで天下普請によって
造り直している。つまり、巨大な石垣や深い堀は、“秀吉の大坂城”ではなく、豊臣家が滅亡した後に、徳川家がつくったものである。
大阪城は東、北、西の三方向が上町台地の崖となり、湿地帯に囲まれ、自然の地形の力で、強固に守られていた。
幕末に徳川慶喜が大阪城から江戸に逃亡する際に出火し、建造物の殆どが焼失、更に終戦前日の大阪大空襲により焼失した。
1665年に落雷によって消失した天守は1931年(昭和3年)まで再建されず、266年間大坂城は天守を持たない城でもあった

   
  鯱(しゃちほこ)と伏虎(ふくこ)のレプリカ 

大阪城のボランティアガイドさんが個別でも案内をしてくれるというので、まず、天守閣を見て回って、
そのあと、ガイドさんに本丸周辺を案内していただくことにした。
大阪城は上町台地にあって、古代はすぐそこまで海が来ていた場所でもある。
復興に当たって、大阪の人々は城の土台を秀吉が造ったものと信じ込んでいたから、天守は豊臣時代のものを模している。
その結果、徳川時代の天守台に豊臣時代の天守が乗る格好になっている。破風飾りには太閤菊の紋が黄金色に輝いている。

   
 東側 クリスタルタワー(左) 

   
   

   
 北側  

北西方向を見ると梅田のビルが見渡せる。

   
 西側の展望  

   
 激戦のミニチュア  金明水井戸屋形(きんめいすいいどやかた)

大坂夏の陣の真田幸村と松平忠直の激戦をミニチュアで再現。
小天守台に設けられた金明水の井戸屋形は1626年(寛永3)に建てられた。
全国で唯一残る城郭の井戸屋形。秀吉が井戸に黄金を
沈めたという逸話から、この井戸の水は「黄金水」とも呼ばれた。

   
 豊臣大阪城の石垣は地中近くに眠る説明 桜門枡形の巨石

徳川幕府は豊臣家大阪城の上に盛り土をして新たに大阪城を築いた説明と絵があった。
豊臣大阪城の石垣は、今も足の下、地中近くに眠っているのである。

   
蛸石  蛸石 を拡大

大手門をぬけ、桜門をくぐると、巨大な蛸石が見えてくる。
桜門枡形には城内でも殊更の巨石が集中している。蛸石(城内第1位)、袖振石(第3位)、碁盤石(第6位)、
桜門四番石(第9位)、龍石(第10位)と城内の巨石ベストテンの内、実に半分がここに集中している。
蛸石は、石材左側に蛸の頭のようなシミがあることからこの名が付いた。
枡形内で使用されている巨石はその巨大さとは裏腹に厚さは50cm程度と以外に薄い。
ガイドさんが、石の隙間から支持棒を入れて、このぐらい薄いですと示していただけた。
巨石の裏には栗石に加えて石を支えるための別の石垣が組まれているのである。
このように一般城壁の石垣と枡形の巨石では内部構造が全く違ったものになっている。
巨石はいずれも、豊臣時代のものではなく、徳川時代の大坂城再築の時に、瀬戸内海の
島々から運ばれてきたものである。担当大名は、最初は熊本藩主加藤忠広でのちに
久留米藩主有馬豊氏が築き直した。大手門枡形は、大坂城の正門の防御施設として、立派な石垣で築かれている。
これらの巨石はいずれも、豊臣時代のものではなく、徳川時代の大坂城再築の時に、瀬戸内海の島々から
運ばれてきたものである。
担当大名は、最初は熊本藩主加藤忠広でのちに久留米藩主有馬豊氏が築き直した。

   
桜門  桐紋の装飾瓦 

桜門はもとより渡櫓、渡門、続多聞など全て明治維新の際に焼け落ちており、現在の桜門は明治20年(1887)、
当時の陸軍が再建したものである。この門では装飾瓦に三つ葉葵ではなく桐紋が使用されており、
「豊臣秀吉の大阪城」という当時の認識が色濃く反映されているのである。

   
  地下石垣の蓋 

天守閣が見える場所に、大きな井戸のようなものがある。徳川によって埋められてしまった豊臣大坂城。
地下にその石垣が残っているのである。鍵を開けると、はしごで下ることができる。深さは7m以上。
ブラタモリで放送をしていて、取材カメラマンが下へ降りると、古い石垣を見ることができた。
それが豊臣秀吉築城の石垣である。豊臣大阪城の本丸は、苦い記憶を消すかのように、
盛り土ですっぽり覆われている。その上に、徳川の大阪城が建てられたのである。

   
天守閣   石垣

現在、豊臣期の大坂城はすべて土の下に埋もれている。石垣の積み方や石の刻印などから、
江戸幕府が堀や石垣に至るまで天下普請によって造り直したことは明らかである。

   
大阪城天守閣石垣の隅石  隠し曲輪 積み上げられた刻印石

石垣の隅(角)に使われる石を隅石(隅石)よばれる。隅以外の場所に使われるのは平石と呼ばれる。
大阪城の石垣の面もしっかりと取られ、段違いになっている。この四角柱の石を互い違いに組み上げていく方法を
算木積と呼ばれている。算木とはそろばん以前に計算の道具として使われた棒で、この形に似ていることから
呼ばれたようである。石垣の角の稜線を形作る角石と角脇石を井桁状に組んでいく算木積みの技術を使っている。
このような石垣のつくりは頑丈である。
隠し曲輪内にある石垣には園部藩・小出吉親の家紋に由来する「二八」の刻印がある。
また、近くには大洲藩・加藤泰興の刻印が並ぶ。

   
  (二八)の刻印 

   
丹後竹田・中川久盛か、伊予大洲・加藤恭興のどちらかの刻印  毛利氏刻印 

   
内堀   

上町台地の端に立つ大坂城は、かつて東・北・西を低湿地で囲まれていた。

   
   

   
   

   
 北側の山里口枡形丸から見た天守 刻印石広場 

徳川時代に大阪城の石垣に強力した大名や豪商の手がけた城石には、担当した大名や豪商の刻印などが彫られている。

   
刻印 大阪城内ゾーン  刻印 

   
 豊臣秀頼、淀殿自刃の地碑 御座船 

大阪夏の陣で、秀頼、淀殿が自刃したのは、山里曲輪と伝えられている。
このため徳川期大阪城ではあるが、現在の山里曲輪に母子の供養塔が建てられている。
1615年(慶長15年)5月8日、秀頼とその母淀殿を始めとする主従約30名は落城直後の大阪城内で自刃した。
自刃の場所については諸説あり、この碑が建てられているここ山里曲輪(くるわ)の一角にあった矢倉の中とする説が有力である。

   
 極楽橋のつなぎ跡 極楽橋のつなぎ跡 

極楽橋は本丸北端の山里丸と二の丸を結ぶ全長54mの橋である。現在の極楽橋は徳川大坂城再建の折に架橋された
橋が明治維新の戊辰戦争で焼失し、その後、昭和40年(1965)に大阪城整備工事の一環として再建されたものである。
当時あった石山本願寺に行くための橋なので、極楽橋と名付けられた昔あった極楽橋のつなぎの跡も教えていただけた。
昔の極楽橋はもっと広かったようである。

   
御座船   

   
 青屋門  

   
 ガイドさん、ありがとうございます。  大阪城公園駅

ボランティアガイドさんに最寄りの大阪城公園駅への道を教えていただいて、説明が終わった。
この日は、夕方6時から職場の会議があり、それまでに帰らなければならないので、時間が50分
ぐらいしかなかったけど、ボランティアガイドさんもその時間内で案内をしていただけた。
ありがとうございます。