大多喜城 

2017年11月3日

   
海ほたる   

千葉にある大多喜城に行った。車で行き、アクアラインを通り、海ほたるで休憩をした。
海ほたるの駐車場に入るのに混んでいて、時間が結構かかる。
東京湾に位置するアクアラインは、木更津と川崎を、木更津沖合い4.4km に造られた人工島「海ほたる」
を接点として、海上ルート5.1km と海底ルート約10kmの幹線道路で結ぶ東京湾を横断する有料道路。
その中央部に位置する海ほたるパーキングエリアは、360度海に囲まれた眺めを楽しむことができる。

   
   

   
 大多喜城への道 大多喜町物産センター 

大多喜城(千葉県大多喜町)は大永元(1521)年、上総(かずさ)国(千葉県中部)を支配していた
真里谷信清(まりやつ・のぶきよ)が築いたのが始まり。当時は根古屋(ねこや)城と呼ばれていた。
天文13(1544)年、里見(さとみ)氏の家臣、正木時茂(ときしげ)によって、真里谷氏は城を奪われる。
以後、大多喜城は正木氏の居城となり、上総国東部支配の拠点となった。
天正18(1590)年、里見氏は、豊臣秀吉が定めた大名間の私闘を禁じた惣無事令(そうぶじれい)に違反したとして、
上総国を没収される。その後、関東に移封となった徳川家康の家臣、本多忠勝(ただかつ)が大多喜城に入城する。
家康は里見氏への押えとして本多忠勝を根古屋城に十万石で配置する。忠勝は根古屋城が防備に適さないとして、
新たに大喜多城の築城を家康に願い出て許された。
関ヶ原の合戦後、忠勝は伊勢国(三重県の北中部、愛知県弥富市の一部、愛知県愛西市の一部、
岐阜県海津市の一部)桑名に転封となり、忠勝の次男、忠朝(ただとも)が大多喜城主となる。
忠朝が、元和元(1615)年の大坂夏の陣で戦死すると、甥の本多政朝(まさとも)が跡を継いだ。
その後は、阿部氏、青山氏、稲垣氏が大多喜城主となり、元禄16(1703)年、
大河内松平正久が入城すると、明治維新まで城主を務める。

   
大多喜城  大多喜城 

本丸跡に建つ天守は、昭和50(1975)年に復元・再建されたもの。内部には千葉県立中央博物館大多喜城分館
(旧千葉県立総南博物館)があり、徳川四天王のひとり本田忠勝の居城で三層からなり甲冑などの
展示物も多く保存されている。古絵図を元に復原されたという御三階櫓。しかし発掘調査では
天守クラスの建物跡は発見されていない。そういう意味では復元というより模擬ともいわれている。
ボランティアガイドさんが説明をしてくれるということで一緒に回ってくれた。
石垣も後の時代に作られたようである。石は多摩川から運んできたとのこと。
このあたりの石は柔らかいらしい。

   
大多喜高校の敷地(二の丸跡) 人車軌道 

1870年に城は取り壊され1966年に本丸跡は千葉県の史跡に指定され1975年に城跡に1835年の図面を
基にして天守が再建され内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置された。
大多喜高校の敷地が当時の二ノ丸。

   
 家紋  鎧を装着 

屋根瓦には最初の城主となった本多家の家紋「丸に立葵」と最後の城主の松平家の家紋「三つ扇」が使われているとのこと。

体験用甲冑(学習キット)を着てみることができるということで、真田幸村の甲冑を着てみた。

   
大正2年の城下町通   

大多喜城分館にて、「2017大多喜城企画展 なつかしの街並み −明治・大正・昭和の大多喜−」と題し、
150点あまりの資料が展示されていた。
大正2年(1913年)の城下町通り(久保)商家「伊勢幸」前、
旧制大多喜中学校(明治33年〜)の制服、昭和40年代の大多喜駅、明治7年小学読本、
最後の城主 大河内正質と正敏、さよなら木原線のプレートなどが展示されていた。

   
  木原線からいすみ鉄道 

   
なつかしの生活用品  戦時下の生活 

   
樋口一葉の手紙  大多喜町ゆかりの人 

大喜多町ゆかりの人々の中で、大河内正敏の写真があり、大喜多城最後の城主である。
大喜多町のガス開発にも尽力されている。

   
 懐かしい生活用品 当時の新聞記事「この月面を足下に」 

   
「用心棒」ポスター  ピンクレディ 

   
 なつかしい鉄道  昭和45年の大水害の説明

   
ジャンプ創刊号など  鉄腕アトムの漫画など 

   
  展望台から井戸が見える。 

城は夷隅川の北にある台地に築かれ、現在模擬天守の建つ地が本丸、大多喜高校の所が二の丸御殿、
高校のグラウンドが二の丸、大多喜小学校から役場辺りが三の丸である。
高校にある井戸は、周囲10m、深さ20m、日本一の大井戸といわれる。今でも水を湛える。

   
大多喜城(博物館分館)入口  鐘撞堂 

帰りは、養老渓谷にある「ごりやくの湯」で、ゆっくりし帰路に就く。
帰路はアクアラインを使わなく、事故渋滞にも巻き込まれ、時間がかかってしまう。