両国 

2017年2月5日

前日に地域の親父仲間と飲んでいて、すみだ北斎博物館が昨年開館したのが話題になり、
見に行くことにし、ついでに両国周辺を歩いた。

   
両国駅 雛階段   横綱の写真

時期的にひな祭りが近いということで、両国駅を下りると階段がひな祭りになっていて、
記念撮影をする人もいた。両国は国技館があるので、相撲の街でもある。ちょうど
相撲トーナメントが行われていたため、国技館前は人でたくさんにぎわっていた。

   
力相撲像  特徴のあるすみだ北斎記念館の建物 

江戸時代後期の浮世絵師・葛飾北斎。宝暦10(1760)年9月23日に本所割下水(現・北斎通り)付近で生まれる。
90歳で亡くなるまで、引っ越しをくり返しながらも大半の時間を墨田区内で生活。
その世界的に評価の高い葛飾北斎の作品を展示する「すみだ北斎美術館」が
2016年11月22日(火)にオープン。同館では数々のコレクションとともに、タッチパネル式情報装置や
北斎のアトリエの再現コーナーなどがある。この美術館を設計したのは著名な建築家、妹島和世さん。

   
   

常設展と企画展が開催されており、常設展は一部の作品を除いて写真撮影が可能であった。企画展は撮影禁止。
葛飾北斎を研究した米国人収集家と美術史家の二人のコレクションを公開するのが今回の企画展である。
二人はピーター・モース氏(1935〜93)と楢崎宗重氏(1904〜2001)である。

   
   

館内は、外国の人も多く、いろいろな言語の説明がされているタッチパネルをいじり、有効であった。
葛飾北斎の海外での人気の高さも伺えられた。

   
  皿屋敷 

   
牡丹に胡蝶   

   
   

冨嶽三十六景に代表される錦絵(木版多色刷り)を描いている頃で70歳、さらにその後肉筆画に挑戦し、
90歳まで絵を描いていた、生涯成長し続けたと言えよう。

   
  美術館前の公園からスカイツリー 

コタツのように布団に包まって一心不乱に描き続ける絵画への執念あふれる姿はアトリエなどという
アートな響きとは異なる「職人」の世界。3万点以上にも及ぶ絵画を残してきた北斎の死の間際の台詞が
「あと10年、いや5年生きれば、真の絵描きになれたのに」と言い残したそうだ。
傍らに居るのは娘にして助手であり浮世絵師でもある葛飾応為(おうい)。

   
江戸東京博物館  江戸東京博物館の中のお飾り 

   
武道館の幟   

   
震災遭難児童弔魂像  慰霊堂 

東京都慰霊堂は、大正12年9月1日の関東大震災および第二次世界大戦での東京大空襲により
亡くなられた方々の遺骨16万3千体を安置している。また、当時の遺品や絵画、写真などを展示している
復興記念館もある。元来は、陸軍被服廠跡と云う、軍服などを作製する工場の跡地に、関東大震災の
際に沢山の人々が逃げ込んだところ、熱風が襲って、逃げ込んだ人々が焼け死んだ。その悲惨な跡地に、
関東大震災の被災者の御遺骨を納める霊堂として、「震災記念堂」として昭和5年に建てられた。
その後、東京大空襲で亡くなった方々の御遺骨を納め、霊堂として「東京都慰霊堂」となった。

火災旋風が吹きまくった状況
1923(大正12)年9月1日午前11時58分。相模湾内に発生した巨大地震は、震源に近い神奈川県よりも、
東京市内に大きな被害をもたらした。下町を中心に発生した火災が原因で、特に両国駅近くの
「被服廠跡」が惨憺(さんたん)たる状況に陥った。被服廠跡とは旧日本陸軍の軍服などを製造する工場と
事務所の跡地(約6万6000平方メートル)である。一帯は再開発が予定されており、更地に火災を逃れた
何万という人々が集まってきた。そこに想像を絶する「火災旋風」が襲来した。折から小型の台風が
日本海沿岸を進んでおり、東京でも風速20メートル以上の南風が吹いていた。竜巻のような火炎が、
午後4時ごろから約2時間、人々を舐(な)めつくし、吹き飛ばしていく。旋風が収まった後、黒焦げの遺体が
あたり一面に横たわっていた。その数約3万8000体。東京全体の犠牲者5万8000人の65%という
膨大な数である。翌日から遺体、遺骨の収容が始まった。10日後、遺骨の山は高さ3メートルを超えたという。

   
 慰霊堂の祭壇 空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑 

「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」は、半円形の斜面である。季節ごとの花で覆われている。

   
地震発生時の11時58分で止まった壁時計。   

横網(よこあみ)町公園の「東京都復興記念館」は、1階が関東大震災、2階が同震災と
東京空襲の展示になっており、1944年から終戦までのパネル写真や図表を中心とした資料を展示している

   
石川光陽   

石川光陽は戦時中、警視庁に所属していた写真家で、警視総監の指示によって戦災の状況を撮影していた。
東京大空襲の焼け跡を撮影したものは,戦後GHQの引渡要求から守り抜いた,貴重なものである。
石川は駐留軍から震災写真のネガフィルム提出を求められたとき、断固拒否を貫いたことでも知られている。

   
横網町公園   復興記念館

   
震災で溶解したビルの鉄骨   東京都慰霊堂の門