鯖江
2023年8月13日
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鯖江駅 |
コアロードコマチ |
愛知の実家に帰るついでに、北陸方面にも足を延ばすことにした。
お盆の時期でなかなか宿が取れなかったが、鯖江でとることができたので、向かった。
鯖江駅では、観光案内所で、ホテルの場所と観光スポットを聞いた。案内してくれた
若い女性は、とても親切に教えてくれた。
鯖江市は、メガネフレームの国内生産シェア約9割を誇る、一大メガネ産業地域。
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願掛け地蔵さん |
願掛け地蔵さん |
鯖江市古町商店街の真ん中に位置する古町公園に、「願掛け地蔵さん」がいた。
今から約1200年前、現在の鯖江市上戸口地籍にある“三峰山”のふもとに、
年中清らかな水を絶やすことなく湧き出す、小さな池の傍らに佇んでいた。
清らかな水を三度、お地蔵さんにお掛けすると願いが叶うと言い伝えられる
「願掛け地蔵」さん。遠く三峯山麗から貰い請けここに安置されたそうだ。
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サバエシティホテル |
鯖江の日本酒「梵」 |
サバエシティホテルで宿泊。ホテル内の居酒屋を観光案内所の女性には
勧められていたが、同窓会が開かれていて、満席である。仕方なく、
近くの居酒屋などを探したが、閉店をしていたり、休みであったり
なかなか見つからない。結局、近くのスーパーで寿司やビール、つまみ等を
買い込んで、ホテルで飲食。「道の駅」で日本酒「梵」も買って飲む。
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西山公園 |
西山公園案内 |
朝、ホテルで起きたのが6時半近くだった。すぐに朝食バイキングを
食べに行き、そのあと、ホテルの隣にある西山公園を散策した。
レッサーパンダのいる西山動物園は、9時からの開園だったので、
その前に、展望台まで歩く。
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結びのチャイム |
祈りの道 |
祈りの道は、西山公園の配水場下から続く遊歩道。市民有志らが石像を刻み、
1988(昭和63)年開道した。阿弥陀像や地蔵像、母子像、観音像など
さまざまな姿の石像400体以上が並んでいる。
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雲がかかる日野山、手前が村国山 |
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この辺は古墳群も多いみたいで、左上の緑の茂った場所は王山古墳群である。
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展望台 |
三等三角点 標高:110.74m |
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見ざる、聞かざる、言わざる |
妙法寺 |
西山公園内に妙法寺がある。
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間部 詮勝像 |
間部詮勝と嚮陽渓についての案内板 |
間部 詮勝(まなべ あきかつ) |
間部 詮勝(まなべ あきかつ;1804〜1884年)は、第7代鯖江藩主であり、歴代の鯖江藩主の中でも名君として知られています。前藩主
間部詮允(あきざね)の急死によって、1814(文化11)年9月22日にわずか11歳で鯖江藩主となりました。 |
嚮陽渓(きょうようけい) |
1856(安政3)年には、領民の憩いの場として「嚮陽渓(きょうようけい)」(現在の西山公園の基礎)を開きました。「嚮陽渓」の「嚮陽」には、「自然に親しみ、陽に嚮(むか)って、常に明るく、いつも隣人を愛する」という意味があります。なお、諸大名が自らのために庭園を造らせる事は珍しいことではありませんでしたが、領民のことを考えた庭園の造営は、嚮陽渓と水戸藩の偕楽園を除き、例がないといいます。
詮勝が藩主となった当時の鯖江藩は、御達山(おたてやま)(現在の市中心部にある長泉寺山(ちょうせんじやま)の辺り)に城を築く計画を立てており、天保年間(1830〜1843年)には幕府から築城費用五千両を下賜されるまでに至りました。しかし実際は、藩の財政困難、飢饉の発生などの問題や、土地が城の敷地としては手狭(幕府領などが混在)であったことなどから、「鯖江城」が築城されることはありませんでした(なお、当時の築城計画の図面は資料として残されており、まなべの館(鯖江市資料館)に模型が展示されています)。その代わり、築城費用は飢饉の被害で困窮していた各村に貸し与えられ、詮勝は名君と呼ばれました。なお築城予定であった場所に嚮陽渓を造営したのはこの後であり、詮勝がいかに領民のことを考えていたかがうかがえます。
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嚮陽渓碑 |
西山動物園 |
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西山動物園入り口 |
タンチョウ |
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レッサーパンダ |
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リスざる |
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フランソワルトン |
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鯖江本山誠照寺 |
鯖江本山誠照寺で、青空骨董市が開かれていて、寄ってみた。
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誠市 |
鯖江本山誠照寺の本堂 |