2022年9月24日
鍋島直正公 | 鯱の門 |
佐賀城は鍋島氏の居城として知られている。もともと龍造寺氏が居城としていた
村中城を改修・拡張したものである。1874年(明治7年)に起きた佐賀の乱では
戦場となり、鯱の門には当時の弾痕が生々しく残っている。現在、城跡は
佐賀城公園として整備され、2004年(平成16年)には木造復元建物としては
全国で初めて本丸御殿(佐賀城本丸歴史館)が建てられた。なお、
本丸御殿のうち、御座間の部分は天保期の瓦や柱がそのまま使用されている。
佐賀の乱(佐賀戦争)で焼け落ちた佐賀城の中で現存している『鯱の門』。
天保9年当時の姿をのこす。銃弾跡も刻まれている。
石垣 | 本丸御殿 |
本丸御殿に入って、ボランティアガイドさんに説明を聞くことになった。
話も面白くて、いろいろと知識も得ることができて、満足度は高かった。
北廊下 | 復元資料 |
館内に入ると45メートルも続く畳敷きの長い廊下や320畳の大広間が広がっている。
廊下には畳が敷いてあって、江戸城の松の廊下は何が敷いてあるかと聞かれる。
答えは同じく畳だという。テレビでは足元まで気にしていないで、気が付かないのである。
復元資料 |
佐賀城の変遷や復元の過程を貴重な資料から知ることができる。
当時の「佐賀城御本丸差図」や古写真などをもとに復元が行われた。
御玄関・御式台・外御書院・御料理間などの表、藩主の居室である御座間などの中奥、
長局などの大奥、さらには請役所や御懸硯方などの役所機能も取り込んだ
藩政拠点としての役割が認められる。
建物の構造模型 |
今回の復元の大部分は、江戸時代と同じ建築工法で建てられた。
屋根瓦の下には防水目的で薄い杉板を竹釘で固定するなど、直接目に
見えない部分まで詳細に復元。使用している木材は、杉、檜、松、ケヤキの4種類。
御座間 |
御座間は藩主の執務室として利用されていた。
本丸御殿内にトイレがあったが、昔は臭かったので中にはなく、外にあったと説明される。
藩主専用のトイレも外に出たところにあったとのこと。
建物表示 | 外御書院(一の間)にある書 |
現在はまだ復元されていない建物群の一部を地面に平面的に表示。
発掘した遺構は、天保9年(1838年)に再建された本丸御殿を描いた
『佐賀城御本丸差図』と、一致している。
白い枠は復元されていない以前あった部分
一之間から四之間までの4部屋 |
一之間から四之間までの4部屋と、南北の廊下を合わせると320枚もの畳を使用している。
一之間は公式行事の際に藩主が座る部屋で、家臣は主に二之間から四之間
にかけて控えていた。一之間で藩主が話をし、二之間以降で家臣は話を聞いていた。
当時はマイクもないので、聞こえたでしょうか、どうしたでしょうかと問われる。
結局は通訳する人がいて、奥に行って伝えたのことである。
佐賀城は享保11年(1726)の火災により天守閣をはじめ本丸・二之丸・三之丸などの
建物が全焼し、その後は二之丸御殿が藩庁としての機能を担ったが、再び
天保6年(1835)の火災により焼失した。そこで10代鍋島直正は本丸御殿の
再建にとりかかり、同8年に完成し、翌年直正が入り以後はここで政務を執った。
反射炉 |
鯱の門(重要文化財)には、佐賀の役の戦災で負った、弾痕の後が今も残っている。