埼玉古墳 

2014年3月1日

   
埼玉県名発祥の碑   さきたま史跡の博物館

埼玉古墳公園には、今から1300年から1500年くらい前に建造された古墳が、8基の前方後円墳と1基の円墳の

9基が残っている。古墳群を見学する前に、資料館で、知識を得ることにして、博物館に入ることにした。

「さきたま史跡の博物館」では、古墳からの出土品を多数見学することができる。

入館してから、ガイドさんをつけられるかどうかを聞くと、ガイドボランティアさんがいらして、説明を受けることが出来た。

   
 ボランティアさんの説明「関東の大型古墳」  古墳群の写真

丸墓山古墳以外はすべて前方後円墳であり、不思議なことに、いずれも後円部をほぼ北に向け築かれている。

   
金錯銘鉄剣がケースに展示されていた。  稲荷山古墳と航空写真

「金錯銘鉄剣」きんさくめいてっけん)は、展示施設の中央に置かれた腐食を防ぐために窒素ガスを封入したケースに展示されている

金色の漢字が見える。この文字は、1978年に腐食を保護するためにX線処理をしたときに、発見され、

全部で115文字ある。金で刻まれた「獲加多支鹵大王」(ワカタケルノオオキミ)の文字も見えた。

接写は禁止となっていたので、遠くから写した。獲加多支鹵大王とは『日本書紀』に記す大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)大王、

すなわち雄略天皇のことであり、辛亥年は伴出した副葬品の考古学的検討から西暦471年とされている。

昭和43年(1968)に稲荷山古墳を発掘調査した時、刀身73.5cmのこの鉄剣は後円部頂上の礫槨(れきかく)の中から発見されていた。

10年もすると掘り出された鉄剣の傷みが進んできたため、その保存処理を奈良県の元興寺文化財研究所に依頼していた。

同研究所は鉄さびを落とす作業中に、刀身の表に57文字、裏に58文字、計115文字が金象嵌で刻まれていることが発見された。

昭和53年(1978)9月のことである。

昭和43年に撮影した航空写真には、稲荷山古墳の周りに、今はない前方部の輪郭や小円墳の形、長方形に巡る二重掘りの

様子などがうっすら残っていたとのこと。これは地中の土質や水分の違いによって米屋麦の生育のようすが

違ってしまうためにおこる現象でクロップマークと呼ばれている。

   
 馬の埴輪なども展示されていた  横穴式石室(将軍山古墳展示室)

   
瓦塚古墳  礫郭の埋葬想定図 

資料の安全上、ガラスケースの上からの撮影禁止だったので、壁に掲げてある写真や図などをカメラに収めた。

   
 帯金具  画文帯環状乳神獣鏡

画文帯環状乳神獣(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)の名称の由来は、画文(紋)帯とは厚く平らな縁に模様をつけること、

環状乳とは内区に8ケの乳(小円)を同心円上に描くこと、神獣鏡とは”獣を背にして神仙が座る図像”が

東西南北を示す四隅に描かれることである。同じ形で作ったとみられる鏡が、群馬・千葉・三重・福岡・宮崎で

出土している。同じ鏡が全国に散らばっているのは、ヤマト王権がその地の豪族に配布したものでは

ないかといわれている。稲荷山古墳の被葬者はヤマト王権への従属の見返りにもらったのだろうか。

   
 桂甲の説明  埴輪

 桂甲とは、小さな鉄の板(小札)を紐でつなぎ合わせたものである。

   
 丸墓山古墳に向かう 石田堤 

石田堤は、天正18年(1590)に石田三成が忍城(おしじょう)を水攻めにしたとき築いた堤防の一部である。

   
 丸墓山古墳の上に登る。 丸墓山古墳から忍城がみえた 

丸墓山古墳は埼玉古墳群の中で唯一の円墳で、直径は105m、高さは18.9mとのこと。

1590年の豊臣秀吉と小田原北条氏の戦い(小田原の役)で忍城を水攻めにした石田三成が、水攻めの進行具合を

確認するために「丸墓山古墳」の頂上に本陣を築いたとされている。

   
   

稲荷山古墳は頂上で粘土と河原石で復元された2基の埋葬施設が見られる。埼玉古墳群の北東の隅に位置する前方後円墳である。

発掘調査によって、古墳全体が長方形の二重の周濠に囲まれいたこと、墳丘の西側および中堤の西側に、

「造出し(つくりだし)」と呼ばれる祭祀のための方形区画があったことが判明した。

   
 稲荷山古墳  稲荷山古墳に登る

稲荷山古墳は、古墳の上に稲荷社があったことから「稲荷山」とよばれている。

有名な鉄剣銘文が発見されている。発掘は当初、大型古墳の中でも、最も小さい愛宕山古墳が候補に挙がったが、

前方部がすでに失われて崖面が崩れつつあった稲荷山古墳が急遽変更になったとのこと。

昭和43年(1968)に行われた発掘調査で、後円部の頂上から2つの埋葬施設が発見された。

1つは、素堀りの竪穴で底に粘土を敷いて棺を置いた粘土槨(ねんどかく)だった。もう1つは、船の形に掘った竪穴に

河原石を貼り付けその底に棺を置いた礫槨(れきかく)である。粘土槨はすでに盗掘されていて、わずかばかりの

遺物が残っているにすぎなかった。しかし、礫槨は盗掘を免れたため、埋葬当時の副葬品の並べ方がわかるほどよく残っていた。

   
 礫郭の埋葬の説明板  礫郭

埋葬設備の実物は埋め戻して地中に保存されているが、後円部の頂きに登ると、そのレプリカがL字型に配置してある。

   
 稲荷山古墳の後円部から前方部に歩く。  丸墓山古墳

   
将軍山古墳   馬に乗った武者

実物の横穴式石室を建物の中から見学できる「将軍山古墳」は、全長90mの前方後円墳である。

将軍を埋葬したとの伝承から将軍山古墳と呼ばれている

玄関を入った一階正面に、墳丘の断面の土層をはぎ取った大きなパネルが立ちはだかっている。

褐色の粘土と暗褐色および橙色の関東ローム層の土を交互に突き固める版築(はんちく)という工法で、

墳丘が作られていることがわかる。その奥には、この古墳から出土の馬具を付けた馬に乗る武人の像が置かれている。

被葬者の”将軍”の生前を彷彿とされる騎馬武者である。

   
石室と埋葬時の様子  馬具と武人の説明 

展示館の2階は、横穴式石室と埋葬時の様子を再現・展示している。石室内部に横たわった像と副葬品が並べられていた。

副葬品の中に馬胄(ばちゅう)や蛇行状鉄器(だこうじょうてっき)がある。

。蛇行状鉄器は、馬の鞍に取り付けたU字型の金具に差し込む旗ざおのこと

古墳の出土品には、馬具や環頭大刀、馬胄など朝鮮半島とつながりが深いものが多く含まれている。高句麗古墳の壁画には、

胄(かぶと)と甲(よろい)を付けた馬にまたがり、旗ざお金具に旗をさして疾走する武人が描かれている。

   
石室に使われた「房州石」   双子山古墳

房州石は、千葉県富津市の鋸山周辺の海岸にみられ、凝灰質の砂岩に貝が住み込んで穴をあけたものである。

武蔵の国で最も大きな前方後円墳といわれる「二子山古墳」は、全長が138mもある。

墳丘の発掘調査は行われていない。

   
かねつき堂  ゼリーフライ 

古墳跡をみて、忍城の駐車場までいき、車を置いて、かねつき堂という店に入る。

行田の名物であるゼリーフライとフライ焼きそばを食べる。

ゼリーフライはおからのコロッケのようなもの。その名の由来は、小判形であることから「銭フライ」と言われていたものの

「銭」がなまって「ゼリーフライ」となったとか。フライはお好み焼きの具のない状態を薄く伸ばしてやいたようなものである。

その後、忍城の資料館を見学した。

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