関ケ原 

2016年11月12日


1600年、徳川家康が率いる東軍と石田三成が率いる西軍が激闘を繰り広げた場所である関ケ原を訪れた。
名古屋で同窓会があったので、ついでに足を延ばした。朝、自宅の最寄り駅5時8分始発の電車に乗る。

   
 関ケ原駅 関ケ原町役場 

関ケ原駅に到着し、駅を降りて、歴史民俗資料館を目指して歩く。近くに関ケ原町役場もあった。

   
関ケ原町歴史民俗資料館  民俗資料館 

9時に歴史民俗資料館に着き、10時からの史跡ガイドツアーに申し込む。10時までは、資料館の中を見て回る。

   
資料館前の石碑  武将の説明版 

10時にガイドさんの案内で、歴史民俗資料館を出発する。ガイドツアーは、
資料館〜決戦地〜笹尾山、石田陣〜島津陣〜家康陣、床几場〜資料館で2時間コースになっていた。
出発すると道の電信柱にそれぞれの武将の説明があった。最近できたとのこと。

   
決戦地と 笹尾山  決戦地

田園の広がる中程にある「決戦地」には大きな石碑と徳川家・石田家の家紋入りの旗がある。
決戦地は笹尾山の正面にあり、石田三成陣地の陣地に集中したのでしょう。

   
  笹尾山(石田三成陣地) 

関ケ原の戦いを引き起こしたのは、朝鮮出兵をめぐる現地の武将と、中央の豊臣秀吉およびその意向に従って
行動する石田三成ら奉行衆との対立であったといわれる。関ケ原の戦いで争った二つの軍は、徳川家康を
総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし石田三成を中心とする西軍であった。

   
 長い槍を持っている。 案内ガイドさんと甲冑ボランティア 

途中で鎧をつけ、長い槍をもった人と会う。甲冑ボランティアの方である。

   
笹尾山入口   オブジェ

オブジェの隙間からのぞくと、真正面に徳川家康の陣地の目印になる赤い鉄塔が見えた。

   
砦   笹尾山山頂に向かう

笹尾山は、合戦時に、敵の攻撃からの防御として使われた竹矢来・馬防柵が復元されていた。

   
 石田三成陣地石碑  笹尾山からの展望

笹尾山山頂からは、古戦場全体が見渡せれた。ただ、木も生え茂っているので、
11月末から工事に入り、来年の3月まで立ち入り禁止になるとのこと。

   
 笹尾山の三成軍旗  関ケ原

関ケ原を決めたのは、黒田長政の役割は大きかったという。一番の功労者として、家康からは信頼される。
小早川秀明に寝返りをとりつけ、ほかの武将たちとも裏工作をしながら、関ケ原の合戦に臨んだのである。

   
桃配山   笹尾山を振り返る

わかりにくいが鉄塔の立っている付近が家康最初陣の桃配山

笹尾山を振り返ると、上の幟が三成陣、右下の幟が島左近。

「三成に過ぎたるものが二つあり。島の左近と佐和山の城」とうたわれた島左近(清興(きよおき))である。

   
島津義弘陣跡  小池島津義弘陣跡 

関ケ原で最後に残った島津義弘は、僅か200に足らぬ兵で一団となって、敵中強行突破をし帰国した。
小池とはこの場所の地名であるとのこと。

   
関ケ原合戦開戦地碑 奥に開戦地がある。  徳川家康最後陣地 

時は慶長5年(1600年)9月15日、夜は明けたが、前夜からの濃霧のため見通しが利かない。午前8時ころに
なってようやく霧が晴れたので、井伊・松平の隊がまず進出して宇喜多の隊に発砲し、戦端の火ぶたが
切られようとしたが、これを見た福島の隊は遅れてはならないと、宇喜多の隊に攻撃を開始した。
かくて戦機を得た東軍右翼の黒田・竹中・細川などの隊は一斉に石田・小西の隊を攻撃。
左翼の藤堂・京極の隊も大谷の隊と交戦。関ケ原全体は戦いの中に包まれ、戦いは一進一退。
西軍がやや有利に戦う。開戦地は、井伊直正が鉄砲隊を前進させたところでもある。

   
  徳川家康最後の陣地 

合戦後、勝利した徳川家康の東軍によって、討ち取ってきた敵の首級が実検された。
その後、幕府の命を受けた領主の竹中家により周囲の土塁や中央の土壇が築かれたいうことである。

   
 徳川家康最後陣地 田中 吉政陣跡

田中吉政陣跡は、道路の交差点にあって、道路に囲まれた感じであった。
田中吉政は秀吉の死後、徳川家康に接近し、関ヶ原の戦いでは東軍として参加。
笹尾山山麓で石田隊と激突、孤立無援の石田隊は最後まで戦っていたが、三成は戦場から逃走して
伊吹山中に逃れた戦いの後家康は滋賀県の地理に詳しい吉政に石田三成の探索を命じた。
隠れていた三成を古橋村で捕え、家康の元へ送った
    吉政は捕えた三成を丁重に遇したので、そのお礼として秀吉から拝領した脇差を吉政に与えたのだった

   
 福島正則陣跡  月見 宮大杉


歴史民俗資料館に戻り、中でボランティアガイドさんに説明を聞く。終わったのは、12時過ぎである。
名古屋で同窓会があるので、14時ころに関ケ原の駅から乗るつもりでいた。まだ時間がある。
レンタサイクルを借りて、松尾山に向かうことにした。

   
 松尾山の駐車場 山頂まで40分  松尾山城史

松尾山の駐車場で借りた自転車を駐輪して、松尾山に向かって歩き出す。
松尾山の標高は292.7mであるが、ちょっとした山歩きにもなった。

   
 松尾山山頂 松尾山山頂から関ケ原 

松尾山からの展望はよい。笹尾山の石田三成陣地の幟もみえ、関ケ原の全景も見渡せる立地的には非常に良い。
一夜城から小田原城を見渡せたのと同じような光景を感じた。伊吹山も近くで見えた

   
 伊吹山  笹尾山の幟もみえた。

家康は苦戦に苛立ち、本陣を桃配山からまさに三成本陣の笹尾山のすぐ下へ移動させた。
ここからの伝令により松尾山の小早川秀秋に発砲を命じ、見事裏切りへと仕向け、関ケ原合戦を勝利へと導いたのである。
しかし、小早川は最初から黒田の調略を受けていたので、傍観して、寝返りも考えていたと感じられる。
本気で最初に徳川と戦って、戦功をあげるなら、麓に下りていたであろうし、山の高い場所で傍観している場合ではない。
松尾山に布陣した時点で、西軍として戦う気はなかったように思う。
吉継の首を埋めた湯淺五助は藤堂仁右衛門に捕らえられたが、埋めた場所を教え供養を頼んで藤堂に討ち取られる。

   
   関ケ原合戦陣形図

   
 小早川秀明陣跡 小早川秀明の幟 

   
 脇坂保治陣跡   脇坂保治陣跡

脇坂安治は小早川隊が東軍に寝返ると、朽木、小川、赤座隊と共に裏切り、大谷勢に攻めかかる。
大谷吉継は激戦を繰り広げたが、包囲され、大谷吉継は自刃。
形成は逆転し、小西・宇喜多の隊も敗走し、石田の隊もついに敗走。

   
 東山道と東城門跡  西首塚

徳川家康が床几場で首実検をした後、東西に分けて埋葬したことから2つの首塚ができた。
当時の領主・竹中重門が徳川家康の命を受けて埋葬した。

   
徳川家康最後陣地  松平忠吉・井伊直政の陣 

   
松平忠吉・井伊直政の陣   自動販売機も関ケ原の合戦が描かれる。

関ケ原の戦いで先鋒を任されなかった井伊直政が、それを不服として松平忠吉と共に抜け駆けし、突然発砲。
これを機に関ケ原の戦いが始まったが、抜け駆けは福島正則の怒りをかった。。