泉岳寺 

2015年1月11日

泉岳寺近くの道往寺で法事があり、泉岳寺門前の「紋屋」で会食をし、泉岳寺境内を歩いた。

   
 道往寺本堂外観  本堂

道往寺の開基は、江戸時代の寛文年間(1661~1673年)。聖観世音菩薩・千手観世音菩薩の2つの札所本尊をご安置している。

どちらも「秘仏」として、年に一度10月最後の土曜日のお十夜(じゅうや)のみ、その姿が公開される。

本堂は、ご本尊・阿弥陀如来を正面中央に拝し、極楽浄土の喜びを静かに体現しているとのこと。

本堂で法要が行われる。

   
 法要 納骨

墓前でも納骨のための法要も行われた。

   
高輪庭苑 墓城 墓碑 


   
 紋屋入口  紋屋

法要後、富山のお魚料理で、和食の店、紋屋で会食をした。

   
  店内

   
 本日の献立 先付 胡麻豆富 菜花餡

   
 お椀 河豚出汁 
絹豆富 揚河豚 菊菜 芽葱 結葛切
造里 魚介盛り合わせ(鰤、鯛、烏賊) 

   
 焼物 鱈だいだい釜焼き 煮物 天上昆布 筍 梅麩 絹さや 

ご飯は、蕗御飯で、土鍋炊きになっていた。地魚(ブリ)時雨煮が混ざっていた。

美味しかったので、ついお代わりをした。

   
揚物 堀川牛蒡 鶉射込み  デザート ほおずき 柚香煮 



会食後、泉岳寺境内を歩いた。元禄の赤穂浪士の討ち入り事件で有名な、浅野長矩と赤穂浪士が葬られている。

   
 中門 山門 


地上八階建ての計画で、マンションが泉岳寺入口の「中門」脇に建てられることになっており、建設反対の看板があった。

港区は、土地の買い取りを検討してきたが、買い取って施設を建設しても行政需要が見込められないとしている。

泉岳寺は曹洞宗の寺院である。慶長17年(1612年)に門庵宗関(もんなんそうかん)和尚(今川義元の孫)を拝請して

徳川家康が外桜田に創立した寺院。しかし、寛永18年(1641年)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転。

時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した。

山門は、天保3年(1832年)に34世大道貞鈞(だいどうていきん)和尚代に再建されたもの。

   
大石内蔵助銅像 本堂 


大石内蔵助銅像は、内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、

連番状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表している。

現在の中門は天保7年(1836年)に35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚代に

再建されたもので、昭和7年に大修理を施されている。

   
澤木興道老師像   本堂

澤木興道は、仏法の究極である坐禅をもって生涯を貫いた20世紀にもっとも活躍した禅僧の一人

   
主水梅  義士への鎮魂 

主水梅は、大石主税が切腹した松平隠岐守三田屋敷に植えられていた梅

義士への鎮魂は、水を水槽から汲んで、壷の蓋にあいている穴へ流し込むと、静かに金属質の水滴音が聞こえる。

 
 首洗井戸 血染めの梅 血染めの石 

首洗井戸は、士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したところとのこと。

血染めの梅 血染めの石 は、浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石

   
 筆供養の碑 赤穂義士墓地 

赤穂義士は元禄16年(1703年)2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬された。

   
 義士墓  大石内蔵助墓

赤穂浪士は一般に「四十七士」と呼ばれるが、泉岳寺の赤穂義士墓地には、本人は討ち入りを熱望したものの周囲の反対に

遭い討ち入り前に切腹した萱野三平の供養墓(明和4年(1767年)9月建立)を含め48基の墓塔がある。

ただし間新六の遺体は遺族が引き取った。また寺坂吉右衛門は本懐成就後、瑤泉院など関係者に討ち入りを報告して廻り、

のちに江戸に戻って自首したが赦され、麻布・曹渓寺で83歳の天寿を全うした。現在も曹渓寺に眠っている。

萱野三平と、遺骸を遺族が引き取ったため泉岳寺には埋葬されていない間新六とそして討入りに参加した浪士の中で

唯一人切腹をまぬがれた寺坂吉右衛門の墓塔は、遺骸の埋葬を伴わない供養塔である。

寺坂以外の浪士の戒名はすべて最初の文字が「刃」となっている。

   
 義士墓 左:大石吉金(主税) 右:義士の十三回忌供養碑 

   
 大石家の墓  高島嘉右ヱ門の墓

高島嘉右衛門は横浜に ゆかりの深い実業家であり易学者。

横浜駅の近くにある高島台、高島町は高島嘉右衛門にちなんでつけられた地名である。

東京から横浜まで日本で初めて鉄道が敷かれた際は、政府の要請により横浜湾の埋め立て事業を行なう等、横浜の発展に貢献。

高島台には嘉右衛門の屋敷が あって望欣台と名付けていたが、大正三年八十二才でこの地で波乱の生涯を閉じた。