2015年10月25日
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下高井戸シネマ上映作品 | 法政大学ニューオレンジスウィングオーケストラ |
下高井戸シネマで「ピクニック」と「奇跡の人」を見て、下高井戸商店街でしもたか音楽祭をしていて、立ち止まって聞く。
その後、東急世田谷線に乗り、世田谷城址公園と豪徳寺を歩いた。
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フォルクローレ | 東京世田谷線 |
フォルクローレは、「コンドルはとんでいく」を演奏していた。
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東急世田谷線車内 | 世田谷城址公園の石碑 |
東急世田谷線に乗り、「上町」駅に降りて、世田谷城址公園に行った。
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世田谷城跡の説明 | 空堀と土塁 |
世田谷城址公園は、昭和15年に開園した世田谷区内唯一の「歴史公園」で「東京都指定文化財」にもなっている。
公園内には、昔のおもかげを残す土塁や丘、谷があり、樹木に覆われた自然豊かな公園である。
世田谷城は、室町時代の15世紀中頃には存在していたと考えられ、一説によると貞治4年頃(1365年)ではないかと
言われている。さぎ草の伝説の主人公「常盤姫」もここに住んでいたとのこと。初代吉良氏が南北朝の頃、
関東管領・足利基氏から、戦の手柄により、武蔵国世田谷領をもらいうけて築城したのが始まりであるとのこと。
以後、吉良氏八代、二百数十年の間、居城として栄え、吉良御所、世田谷御所と呼ばれていた。
しかし、吉良氏は徐々に北条氏の支配下に組み込まれていき、最終的には北条家の配下となった。
1590年(天正18年)豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅ぼしたとき、北条氏と親戚関係にあった吉良氏も
運命を共にしたため、廃城となっている。今日、開発が進み旧態は詳らかでないが、豪徳寺付近に本丸を置き、
現在の世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられている。
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豪徳寺参道入口 | 豪徳寺 山門 |
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三重の塔 | 狛犬と香炉 |
世田谷城址公園の近くに、豪徳寺があり、寄ってみた。世田谷城主吉良氏の創建で、江戸時代には彦根藩井伊家の
菩提寺となった。本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし1590年の小田原征伐で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
豪徳寺は、鷹狩の帰りに通りかかった彦根藩主井伊直孝に対して寺の飼い猫が手招きをしたため、
直孝はここで一休みすることにした。そして寺の住職からお茶の接待を受けている最中に空模様が悪くなり
雷雨になってしまった。「猫が招いてくれたおかげでずぶ濡れにならずに済んだ。これは縁起がいい。」と直孝は喜んだ。
これが縁でこの寺が井伊家の菩提寺となり、直孝が没すると、直孝の院号「久昌院殿豪徳天英居士」にちなみ寺の名前を
豪徳寺と改められた。招猫観音(招福観世音菩薩、招福猫児はその眷属)を祀る「招猫殿」を置く。
招き猫の発祥の地とも呼ばれている。招猫殿の横には、願が成就したお礼として、数多くの招福猫児が奉納されている。
ちなみに、招福猫児は右手を上げており、小判などを持たない素朴な白い招き猫である。
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梵鐘(ぼんしょう) | 三重の塔の招き猫(一階の部分) |
彦根市のキャラクター「ひこにゃん」は、豪徳寺の「たま」にちなんだものと言われている。
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井伊家歴代の墓が並んでいる。 | 井伊直弼墓所 |
井伊直弼の他、 直孝を始め井伊家代々の墓が建てられている。
幕末期に大老を務めた井伊直弼は、日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を進めた。
しかし、アメリカ有利の不平等条約といわれ、尊皇攘夷派らが反発。1858年から59年にかけて行われた安政の大獄で
反対派を粛清するも、翌年、桜田門外の変で自身が暗殺された。1860年、享年44歳(満年齢)
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本堂 | 参道の松 |
豪徳寺は小田急の小田原線「豪徳寺」駅から徒歩で約15分の所にあるが、東急世田谷線「宮の坂」駅の方が近い。
5分くらいである。宮の坂駅から乗って、下高井戸に出て帰路につく。