白河小峰城 

2020年3月19日

   
白河駅   城山公園入口

小峰城は、小峰ヶ岡と呼ばれる標高370mの東西に細長い(長さ約450m、幅約80m)
独立丘陵を利用して築城した梯郭式(ていかくしき)の平山城(ひらやまじろ)である。

   

 小峰城址碑と、奥に見える三重櫓  復元された三重櫓

奥州関門の名城と謳われた小峰城は、結城親朝が興国・正平年間(1340〜1369)に
小峰ヶ岡に城を構えたのがはじまりで、寛永9年(1632)に江戸時代の初代藩主、
丹羽長重が4年の歳月を費やして完成させた梯郭式の平山城である。
寛政の改革で知られる松平定信をはじめ、7家21代の大名が居城したが、
慶応4年(1868)戊辰戦争白河口の戦いで落城。約120年の時を経て、平成3年(1991)に
三重櫓、平成6年(1994)に前御門が江戸時代の絵図に基づき忠実に木造で復元された。

   
 清水門と高石垣  那須連山

清水門跡。往時は櫓門が建っており、門をくぐった先は帯曲輪跡で正面には
本丸高石垣がそびえ、右手が大手道で竹之丸・前御門を経て
本丸へ至り、左手は搦手口にあたる桜門方面となる。
本丸高石垣は部分的に半円筒状に石垣が積まれていた。
一説に「鷹の目」を表しているともいわれる。この石垣も震災で崩落して、復元。

   
 那須連峰  丹羽長重公築城址

   
 雪見櫓址 三重櫓内弾傷 

三重櫓は、「白河城御櫓絵図」や発掘の成果をもとに、木造で忠実に復元された。
白河小峰城は、戊辰戦争で大部分を焼失したが、平成3年に三重櫓、平成6年には前御門が
史料や古図面などを基に木造で復元されたのである。復元には、戊辰戦争時激戦地であった
稲荷山の杉の大木が使用されているため、床や柱に当時の弾痕を見ることができる。

   
三重櫓内  乙女桜 

白河小峰城にある「おとめ桜」には伝説があり、小峰城の石垣が何回となくくずれ、
人柱を立てることとなり、偶然にも藩士の娘がその犠牲となった。
この娘を惜しんで「おとめ桜」の名で桜が植えられたそうである。

   
 本丸御殿址  

本丸御殿は御本城御殿(ごほんじょうごてん)とも呼ばれ、御書院、御小書院、御月番、
御奉行といった政庁と藩主の居所があったとされる。また本丸御殿の外側には
本丸土塁が巡らされ、富士見櫓や雪見櫓といった隅櫓が建っていた

   
 三重櫓・前御門(南東から)  

丹羽長重・光重父子は、現在に残る城跡や白河市街の礎を築いたあと、
寛永20(1643)年に陸奥国伊達郡に転封されて二本松城を居所とし
二本松藩を開藩したが、その後の白河藩は榊原家、本多家、松平(奥平)家、
松平(結城)家、松平(久松)家、阿部家と七家21代の大名が交代して、
ここ白河小峰城を居城としたが、慶応3(1867)年に最後の藩主、
阿部正静(あべ・まさきよ)が棚倉藩へ移封されると天領となり、
同4(1868)年の5月に會津戦争(戊辰戦争)を迎えた。交通の要衝
であった白河では新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が攻防を繰り返し、
白河小峰城は大規模な戦闘で落城、城郭の大部分を焼失した。

   
悠久の小峰城  見どころガイド 

小峰城歴史館は、展示室1では、小峰城の歴史を解説したパネルや模型、VRシアターなどがある。
展示室2・3では、歴代城主の紹介と、関連する古文書・美術工芸品を展示している。

   
   

   
 松平定信筆 達磨図 谷文晁筆 桜 紅葉図

   
 結城晴朝書状写し  白河城御櫓絵図

   
太刀   阿部家

阿部家は6人の老中を輩出した譜代の名門

   
   

戊辰戦争では奥羽越列藩同盟軍と新政府軍の激戦地となり、城内の建物は尽く焼失したという。

   
   

   
 ランチ とうふソフト 

ランチを食べて、南湖公園までレンタサイクルを借りて、行ったのだが、
帰りの電車に乗ろうとしたら、発車まで40分ぐらいあったので、
再度、白河城まで行って、二ノ丸茶屋で、とうふソフトを食べた。

   
   

   
   新白河駅

往復、大宮〜白河まで、新幹線に乗る。