諏訪原城 

2024年5月3日

   
 吉岡弥生生誕の地(土方バス停) 諏訪原城のジオラマ 

掛川駅からバスで土方まで行き、高天神城に行った後、掛川駅に戻る。
掛川駅から金谷駅に出る。観光案内所で、テレビ画面を見ながら、説明を聞く。
金谷駅からバスに乗り、牧之原台地の茶畑を見ながら諏訪原城ビジターセンターまで行く。

   
こもれび  こもれび店内 

昼時間を過ぎていたので、おなかがすいていて、こもれび
という店で、ビーフカレーを食べる。

   
ビーフカレー  大手南外堀 

諏訪原城跡は、牧之原台地の北端部に近い標高212mから220mの台地に立地する山城。
本曲輪(ほんくるわ)東側の斜面は断崖絶壁となっており、当時の大井川は
牧之原台地に沿って流れていたことから自然地形によって守られた
「後ろ堅固の城(うしろけんごのしろ)」となっており、天正元年、武田勝頼が
家臣の馬場(美濃守)信春(ばばみののかみのぶはる)に命じて築城。
城内に諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と名が付いたと言われている。
駿遠の国境に位置し、武田勝頼・徳川家康の双方が国取りの拠点とした城。
天正3年に徳川家康によって攻め落とされ、牧野城(まきのじょう)
として使用されたが、廃城時期はわかっていない。

   
大手南外堀   

天正元年(1573)に武田勝頼(かつより)が築城し、天正3年(1575)に
家康によって攻め落とされた「諏訪原城跡(すわはらじょうあと)」

   
史跡 諏訪原城跡   

   
丸馬出(二の曲輪中馬出)   堀

「馬出」とは、虎口(こぐち=出入り口)の前に置かれた、前線基地にも防御拠点にもなる空間のこと。
方形のものを角馬出、諏訪原城のような半円型を丸馬出と呼ぶ。馬出は堀で囲まれるのが
一般的で、諏訪原城の丸馬出も、三日月堀と呼ばれる半円型の空堀でぐるりと囲まれている。

   
二の曲輪北馬出の門  

1574(天正2)年に勝頼が高天神城を攻略すると、諏訪原城は兵站(へいたん)基地としての役割を担った。
ところが、1575(天正3)年の長篠・設楽原の戦いで武田方が大敗を喫すると、形勢は逆転した。
すると諏訪原城は、徳川方の駿河攻めの最前線基地へと一変した。1581(天正9)年には、
家康がついに高天神城を奪還。この勝利が武田方を遠江から撤退させる決定打となるが、
諏訪原城を奪って大井川沿いの補給路を封じたことが、高天神城攻めの勝利に大きく影響した。

   
 本曲輪虎口 本曲輪の説明 

   
 本曲輪からの眺め  

   
大井川の手前が金谷、向こうが島田   

   
   カンカン井戸

   
   二の曲輪南馬出

   
 石畳下り口  

帰りは石畳を歩いて、金谷駅まで行く。

   
  すべらず地蔵 

 長寿・すべらず地蔵尊(案内板)
「このお地蔵様・六角堂・鞘堂は、町民の手により据えられたものです。
すべらず地蔵のいわれは、ここの石畳は『すべらない』という特徴から、
受験や商売など、何事も願いが叶う、というところからきています。」

   
   金谷坂の石畳