山本周五郎と高川山 

2006年12月2日

秀麗富獄12景に選ばれている高川山に登った。高川山は大月市と都留市との境に位置している。

2度目である。今回は富士山の姿がよく見えた。

08:55 初狩駅 

09:45 男坂女坂合流地点

10:00〜11:00 山頂

12:25 田野倉駅

山頂から富士山

初狩で生まれた作家、山本周五郎と寒場沢にまつわる説明文が路傍に立っていた。縦書きで左側から書いてあった。

明治36年高川山の一廓に生を受け、この地の山津波の体験を「山彦乙女」で表したとのこと。

しかし、山本周五郎は生誕の家や幼年時代を語ることを好まず、作品にもあまり書いていない。それは、生家の清水家が周五郎の生まれた頃に没落し、窮乏のどん底にあり、高川山からの山津波にもあって祖父母など家族四人を家や家財と共に失ったり、父親の東京に芸者と共に駆け落ち等悲惨な思い出があったためとも考えられる。たまたま周五郎は津波の際に大月に分居していたため、難を逃れたが、生まれ育った故郷が無残にも泥土に埋もれ変わり果てた光景は、周五郎の目にも焼きつき、周五郎の無常観にもつながったとも思われる。その後、周五郎は初狩村に訪れなかったばかりか、初狩村の生まれであることを隠し、本籍地である大草村若尾が出生地であるように語っていたとのこと。

「山彦乙女」には次の記述もある。半之助は花世と共に法王(鳳凰山)をながめながら、

『五百年、千年のむかしにも、私たちがこうして眺めるように、誰かが、こんなふうに、あの山を眺めたかもしれない。(略)これから五百年、千年ののちにも(略)また誰かが、此処へ来て、同じように、あの山を眺めるのだろうか。(略) 過去も現在も未来も、人間は生きてきて悩んだり苦しんだり愛したり憎んだりしながら、やがて死んでゆき、忘れられてしまう。(略)人間の為した事、為しつつある事、これから為すであろうことは、すべて、時間の経過のなかに、かき消されてしまう。ー慥(たし)かなのは、自分がいま生きているということだ、生きていて、ものを考えたり悩んだり苦しんだり愛しあったりすることができる、ということだ。』

周五郎は、臨終の際に医師の用意した強心剤の注射を「徒労だ」と断った上で、やがて、無意識に沈んでポツリと「山へ……」と呟いたという。

どの山をイメージしたのだろう。もし、周五郎が、高川山に登ったら、どんな山の風景を感じたのだろう。

初狩から滝子山
登山道入口

途中、男坂と女坂の分岐に出る。前回は女坂を登ったので、今回は男坂を登る。

結構急な登りで、途中、ロープが設置されているところもあった。

時間的には一時間少しで登れて、あっという間に登ったという感じである。

高川山頂上から、二つの峠越しに、南アルプスの一角が見える。

摺鉢峠越しに雪のかぶった間ノ岳、笹子峠越しに鳳凰三山や甲斐駒ケ岳が見えた。

擂鉢峠越に白い間ノ岳、笹子峠越に

鳳凰や甲斐駒岳

お坊山

滝子山、黒岳、雁ヶ腹摺山などを望む

三つ峠
山頂

今回も山頂に着くと、山頂に住み着いている犬、ビッキーに会った。

まさか今回も会えるとは思えなかったので、びっくりである。

リニアカーの向こうに九鬼山
ビッキーと富士

山頂風景
下山途中の紅葉

禾生駅に向かって歩いたが、下に下りて、田野倉駅と禾生駅の分岐で、田野倉駅まで35分、禾生駅まで30分という

看板があり、あまり変わらないので、田野倉駅までは前回歩いていないと思い、田野倉駅に向かうことにした。

田野倉集落から九鬼山
田野倉駅

富士急特急
田野倉駅から高川山を望む

田野倉駅に着いたのは12時25分。21分発の電車が出た後だった。13時12分まで電車が来ない。

近くのコンビニに行き、ビールとつまみを買い、駅で昼を取りながらビールを飲む。

富士急の特急電車は来たが、田野倉駅は停まらず。