2021年11月21日
ロッジ山旅 | ロッジ山旅の看板 |
山でも登ろうかということで、前日にロッジ山旅に宿泊する。
ほかのお客さんがビートルズファンが集まり、夜は、一緒にビートルズを聞く。
ロッジ山旅のホール | 朝食 |
次の日は、雨という予報。山はあきらめて、高遠城に行くことにした。
保科正之・お静 立像 (高遠歴史博物館) | 保科正之公 生母お静 |
保科正之 |
保科正之は、江戸時代のはじめ2代将軍徳川秀忠のご落胤として生まれました。 母は、奥女中として江戸城に上がっていたお静です。 7歳のときに保科家の養子となり信州高遠にきます。 成人して、3代将軍家光の異母兄弟と知られるようになりました。 26歳で出羽国最上藩20万石の大名となるまで信州高遠に暮らしました。 人生形成の基礎となる小・青年期の19年間を高遠で過ごした 正之は、会津藩23万石の藩主となりました。 常に思いやりと 慈しみをもった民に優しい政治は、ここ高遠藩で培われました。 幕政では4代将軍家綱の後見人として、その時代の舵取りをした日本のリーダーでした |
二代目将軍徳川秀忠には、お静という想いを寄せる女性が大奥にいました。しかし正室お江与の方の嫉妬を恐れて、お静は最初の子を水子にしなければならず、二人目を懐妊してからは、お静の実家の神尾家や、武田信玄の娘である見性院・信松尼などの庇護を受けて出産(1611)しました。この子が幸松、後の保科正之です。 |
高遠町歴史博物館 | 物語まぼろしなりし我が絵島 墓よやかたよ今うつゝなり 十月亭 |
高遠城 |
1547年(天文16)武田信玄は信濃に侵攻し、三峰川と藤沢川が合流する河岸段丘上にあり、三方を河川に囲まれる天然の要害である高遠城を攻略し、山本勘助や秋山信友に命じて大規模な改修を行い、本丸をはじめ、各曲輪は空掘りによって区画された強固な防衛ラインを造っていた。しかし1582年(天正10)武田領に侵攻した5万の織田軍に3,000名が城にこもって徹底抗戦するが、松尾城の城主小笠原信嶺の寝返りによって藤沢川の浅瀬を渡られ大手口、搦め手口から城内に攻め込まれ、一日で落城した。その後、徳川譜代の保科氏・鳥居氏が城を守り、1691年内藤清枚が入城し、明治維新まで8代に渡り城主を務めた。現在城跡はコヒガン桜の名所となっている。 |
「物語まぼろしなりし我が絵島
墓よやかたよ今うつゝなり 十月亭」(有島生馬)
絵島囲み屋敷前
絵島囲み屋敷 |
絵島の囲み屋敷 |
絵島(えじま、天和元年(1681年) - 寛保元年4月10日(1741年5月24日))は、旗本・白井平右衛門の娘で、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄である。名前は「江島」が正しいとされている。歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、江島生島事件の中心人物である。 三河国に生まれ、江戸で育つ。実父・疋田彦四郎(甲府藩士)の死後に母が再婚したため、平右衛門の養女となる。彼女は最初、尾張徳川家に仕えた。次いで甲府徳川家の桜田御殿に仕え、藩主・徳川綱豊が6代将軍・家宣になるとともに大奥入りする。 家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕え、その月光院の右腕とも言われていた。正徳4年(1714年)、月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰路の途中、木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈、歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座に立ち寄り、帰城が遅れた。その門限に間に合わなかった咎で評定所の審理を受ける。山村座の役者であった生島新五郎との密会を疑われ、死罪を減じての島流し処分と裁決が下りたが月光院が減刑を嘆願したため、結局は信濃高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)へ流された。 絵島は屋敷に幽閉され、朝夕二度、一汁一菜の食事を摂り、酒、菓子類を口にすることを禁じられ、着用する衣服も木綿のもののみと定められた生活のなか、お経などを読んで時を過ごした、ともいう。しかし、大奥在籍のころから信仰していた日蓮宗の蓮華寺に行くことは許された。ただ、大奥の事を一切口にしなかったほどの清廉な姿勢が後に高遠藩の藩主に一目置かれるようになったという。そして27年間の幽閉(閑居)生活の後、寛保元年(1741年)に風邪をひいて全身がむくみはじめ、それが元になって死去した。墓所は高遠の蓮華寺にある。法名は「信敬院妙立日如大姉」。 現在では高遠城址公園に隣接した伊那市立高遠町歴史博物館の敷地に、絵島が幽閉された建物が復元され絵島囲み屋敷として公開されている。それは一見、普通の屋敷や家屋のようにも見えなくないが、庭に面した格子戸は「はめ殺し」で開けられず出入りできず、唯一の出入り口の脇には詰所が設けられ監視人が配置され、板塀の上には二重の忍び返しがあり、外部の世界と完全に遮断。つまり屋敷は実質的には監獄であった。また、手紙のやりとりも出来なかったという。 しかし徳川吉宗が8代将軍となり、享保7年(1722年)に高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせ、翌年月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあった。そのため絵島は高遠城内での起居は比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩は認められた。藩主や内藤蔵人の好意で、月に何度かは城に出てきて、城に勤める女性たちの躾の指導をしていた。 (フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用) |
玄関 番人詰所(奥左)、台所(奥右) | 下女詰所 |
食事は朝夕で、一汁一菜
着物は木綿のみ
冬でも火鉢だけ
たばこは出さなくてよい
硯や紙は出さなくてよい
酒は出さなくてよい
絵島の間 | 囲炉裏 |
江島の暮らしぶりは、与えられたのは小さな八畳一間のみで、
屋敷を囲む塀には忍び返しが付けられている。屋敷の外に
出ることも許されず、大奥の情報を外に漏らされないようにと、
紙と筆も与えられないまま、この地で26年を過ごした江島。享年61歳。
歴史博物館のカモシカの剥製 | 「やさい村信州高遠藤沢郷 こかげ」 |
ランチは、諏訪に向かう途中に、「やさい村信州高遠藤沢郷 こかげ」に寄る。
この周辺の農家のおばちゃんが運営会社を結成し
営んでいる地産地消で高遠の郷土の味を提供している。
こかげ 暖炉 | こかげ 室内 |
食堂の建物はかつての寒天工場を改修したものだそうだ。
農家食堂が新聞に掲載される | こかげ 室内 |
地域活性化を目指し、農家の主婦など女性11人が集まって誕生した「こかげ」。
こかげ御膳 | 日替わり定食 |
定食は、こかげ御膳と日替わり定食があった。私は日替わり定食を食べた。
この日は、メインの領地が煮魚だった。名前を聞いたが忘れた。珍しい名だった。
寒天のデザートもついていた。
牛が放牧されていた | 高島城 |
高島城の概要 |
400年ほど前の1598(慶長3)年、豊臣秀吉の家臣「日根野織部正高吉」により築城され、諏訪氏の居城としてその威容と要害堅固を誇ってきました。 日根野織部正高吉が築城の適地とした高島は、当時諏訪湖畔に島状を呈していたと思われる場所で「浮島」とも呼ばれ、ここには主に漁業を営む村落があったことが記録に残っています。高吉はこの村をまるごと移転させて高島城を築いたといわれています。 1970(昭和45)年5月に天守閣が復興され、その美しい姿を再び堀の水に映すようになりました。 |
甲冑の展示 | 3階展望室から 諏訪湖方面 |
展望室からはあいにくの天気で、諏訪湖も雲で見づらかった。
昔は諏訪湖の突き出した水域にあったそうだが、江戸時代に
諏訪湖の干拓で諏訪の浮き城ではなくなったようである。
3階展望室から | 3階展望室から |
展望室から庭園の眺め | 高島城入口 |
三の丸御殿裏門 |
三の丸御殿裏門には当時御川渡御門と呼ばれた門がありここで湖の船に
乗ることができた。 現在の門は三の丸御殿(現在の高島一丁目八番地付近)
の裏門であったものを昭和63年に所有者から市に寄贈され移築された。
諏訪護国神社 |
片倉館 | 片倉館階段 |
片倉館 |
片倉館は、諏訪湖周辺を本拠地として製糸業を営んだ片倉家が公共の福利厚生施設として建設した温泉施設で、昭和3年に竣工した。 森山松之助の設計で、浴場と会館は、急勾配の切妻屋根とタイル張の外壁とし、要所に尖塔をたてるなど変化に富んだ外観になる。 浴場の内部は、大浴室を中心にステインドグラスや彫像などで華やかに飾り、また会館の内部は150畳敷の大広間(おおひろま)を中心とした伝統的な和風のつくりとする。 片倉館の建築は、独創的な意匠をもち、内外装飾の密度も高く、近代におけるわが国建築家による洋風意匠の展開を示す建築のひとつとして重要である。また、実業家の手による最初期の公共の福利厚生施設として、高い歴史的価値を有している。 |
二階 休憩室 | 阿部寛と上戸彩のサイン |
映画「テルマエ・ロマエ2」のロケ地にもなったようである。
諏訪湖エール花火 |
雨が降っていたので、花火はないと思っていた。、風呂から出て、
2階で休憩していたら花火の音が聞こえる。あわてて、3階の
バルコニーの入口に行き、花火を見る。雨のため、
バルコニーには出なかった。目の前が諏訪湖でよく見えた。