高天神城 

2024年5月3日

   
新幹線の車窓から   観光案内所

愛知の実家に帰るついでに、新幹線で掛川駅に降りて、高天神城と諏訪原城に登った。

   
  JR掛川駅 

掛川駅からバスに乗り、土方駅に下りる。バスを降りて入り口がよくわからず、
北側駐車場は搦手側、南側駐車場は追手側にあたり、北側の方が登りやすそう。
車に乗っている人に聞くと大手門のある搦手門から登るとよいと
案内をされた。近くまで車で乗せていただいた。

   
  高天神城想像図 

「高天神を制するものは遠江を制す」と言われた高天神城。
天正九年三月二十二日深夜、
武田方の城主岡部元信率いる決死隊、最後の突撃の末、
徳川、武田が長きに亘り争奪戦を展開した高天神城は落城、
駿河・遠江国の戦乱は、ついに終わりを告げた。
高天神城の立地には海も関係しており、武田軍にとってはこの内海や湿地こそが、
高天神城への効率的な大量物資補給路であり、海側を向く大手門からも水運を
重視していたことが読み取れる。水運ルートの確保を巡っても徳川・武田の戦闘が行われた。

   
 搦手門  搦手門跡

1582年、本能寺の変で難を逃れた家康は、信長死去の混乱に乗じて、旧武田領に侵攻、
大大名へとのし上がる対武田戦で主導権を握った家康は領内に食い込んだ高天神城奪還に成功する。
翌年、織田・徳川軍は各所から武田領内に侵攻、勝頼は自刃、名門武田氏はついに滅亡した。
北側入口となる搦手門側から歩く。

   
 石畳階段を上る 三ケ月井戸 

   
  的場曲輪跡 

標高約130mの鶴翁山に築かれた高天神城は、
当時の築城技術を結集、地形を巧みに利用した要害

   
 土塁跡 本丸跡 

高天神城の大きな特徴が一城別郭(いちじょうべっかく)と呼ばれる構造。
山頂や最奥に配置された本丸(主曲輪)を中心に形成される一般的な
城郭とは異なり、高天神城では井戸曲輪を境に東峰と西峰の独立した丘陵に分かれ、
曲輪構造も異なるのが特徴。東峰は主に居住空間、西峰は戦闘空間として機能していた。

   
三の丸址   御前曲輪跡

御前曲輪址。顔出しパネルは武田勝頼に降伏するまでの城主、小笠原与八郎長忠と奥方
東峰の最高峰、本丸跡と御前曲輪跡。

   
 井戸曲輪跡  高天神社

   
   堀切

   
   甚五郎抜け道

甚五郎抜け道の入口。落城時の城番、横田甚五郎尹松(ただまつ)は、ここから逃げて甲斐へ戻り、
その後武田氏が滅亡すると家康の家臣に。江戸幕府開幕後は旗本として5000石を領し82歳まで生きたらしい

   
 二の丸跡  堀切

   
 堀切