滝山城 

2017年1月7日


前日に八王子城に行き、同じ城主であった北条氏照の城、滝山城にも行ってみたいと思い、行くことにした。

   
駐車場にある案内板   千畳敷

滝山城は、中世城郭跡である。八王子市の北部を流れる多摩川と秋川の合流地点の南、
標高約160mの加住丘陵に位置する。多摩川に面する河岸段丘上に築かれている。
永正18年(1521年)山内上杉氏の重臣で、武蔵国の守護代大石定重が築城し、
高月城から移ったと言われている。その後、大石氏は北条氏照を養子に迎える。
氏照は、この地域の支配の本拠として城を大幅に拡充させた。
上杉謙信、武田信玄などから攻撃を受けた滝山城だが、なかでも信玄、勝頼父子による
永禄十二年(1569)10月の城攻めは、熾烈を極め落城寸前にまで追い込まれた。
氏照は、さらに強固な城を求めて、天正の中頃(1580年代)本拠を八王子城に移す。

   
千畳敷から見た空堀と 「行き止まりの曲輪」  二の丸馬出し方向


千畳敷側から見た「空堀(左部分)」と、その右は、縦長に築かれた「行き止まりの曲輪」
行き止まりの曲輪とは、「ふくろねずみ」という意味で、両端が狭い土橋になっている。
堀を掘る際に、一部を土のままに残して通路として使う場所を土橋という。

   
 二の丸  大馬出側から見た「行き止まりの曲輪」と
「空堀(右側部分)」

この城の大きな特徴は、二の丸の防御方法にある。二の丸へは三方面から侵入できるが、
どの方面にも「馬出」という平場が備えられている。馬出とは曲輪の出入り口の前に備えた広場。
虎口とは曲輪の出入り口のこと。虎口が直角に曲がっているのを、枡形虎口という。
本丸には2ヶ所の升形虎口があるが、二の丸には3か所の喰い違い虎口および馬出が残っている。
二の丸は、多摩川方面以外のルートから攻め寄せた場合には必ず通らなければならない扇の要
ともいえる曲輪。そのため、二の丸の3か所の虎口がとりわけ堅固に作られている。

   
 二の丸  中の丸と二の丸の間の空堀

   
中の丸からの景色  本丸東側の升形虎口。 

枡形虎口は二度直角に折れ曲がり、本丸跡の入口へつながっている。
この城は北方からの上杉や武田からの防御の城として多摩川の急峻な断崖を巧みに利用して
築かれた天然の要塞。また、丘陵を巧みに利用し空掘りと土塁で区画し堅固な防御で固められている。
縄張の見事さから、全国有数の戦国時代の城郭として評価されている。
多摩川に面する河岸段丘上に築かれており、多摩川を最大の防御線としている。

   
本丸と中丸を結ぶ引橋   霞神社

   
断崖上から望む多摩川の景色   

霞神社の裏手には、断崖上のベンチから眼下に多摩川の風景がある。

   
 本丸跡  滝山城跡の石碑

本丸は2段の構造で、上段に霞神社が立つ。

   
本丸南側の升形虎口   引橋

中の丸と本丸の間の堀切に引橋がかかっている。

   
沢井益三氏の句碑 (本丸)  西武ドームの奥に筑波山(山の神曲輪)


本丸址に据えられた、沢井益三氏の句碑は「多摩川の風吹き上げて夏木立」である。
氏は明治拾九年加住村高月に生まれ若くして村役場に奉職し傍ら郷土の研究に情熱を燃やし
特に滝山城趾を世に紹介する事に努め全国観光百選に応募し見事当選する等の業績をあげている

   
 山の神曲輪  山の神曲輪から多摩川

小宮曲輪の北に伸びた尾根を進むと辿り着くのが山の神曲輪。民衆の避難場所であったとされる。
遠くは西武ドームと筑波山が遠望できた。

   
右端の方にスカイツリー   

帰りは、八王子インターから高速道路に乗り、帰路に着く。石川サービスエリアでくまさんのカステラを購入。