多摩川から稲田堤 

2020年5月6日


   
 二ヶ領用水上河原堰が奥にみえる。 多摩川 五本松 

多摩川沿いに出て、狛江の多摩川決壊の碑を見て、多摩水道橋を渡り、川崎の多摩川沿いを歩く。
そして、川崎側の二ヶ領用水上河原堰に進み、三澤川沿いを歩いて、薬師堂を目指す。

   
多摩川決壊の碑  多摩川水害碑文 

多摩川決壊の碑」は、この多摩川水害の教訓を後世に残すために、災害現場の左岸河川敷に建立された。

 碑文 

昭和49年(1974)8月31日深夜から9月1日夕方にかけて、台風16号の影響をうけ、上流氷川を中心とした多量の降雨のため、多摩川の水位が上昇を続けました。この出水により、1日昼ごろ、二ヶ領宿河原堰左岸下流の取付部護岸が一部破壊されたのを発端に、激しい迂回流が生じたため高水敷が侵食され、懸命な水防活動もむなしく、午後10時過ぎには本堤防が決壊し、住宅地の洗掘が始まりました。迂回流はその後も衰えを見せず、本堤防260mを崩壊させたうえ、1日深夜から3日午後までの間、狛江市猪方地区の民家19棟を流失させる被害をもたらしました。
 この「多摩川水害」は、首都圏の住宅地で発生し、3日間という長時間にわたった特異な災害であり、報道機関によってリアルタイムに全国に報じられ、多くの国民の注目を集めました。
 建設省は、災害直後から速やかに本堰周辺の復旧工事を進め、翌年には完了させるとともに、「多摩川災害調査技術委員会」を設置し、いち早くその原因の究明にあたりました。
 一方、被災住民は国家賠償法に基づき提訴し、河川管理の瑕疵について改めて指摘された水害ともなり、平成4年(1992)に判決が確定しました。
 平成10年(1998)、従来の堰より40m下流に、洪水を安全に流すとともに、豊かな水辺環境の保全と創造を目的とした新しい堰が完成しました。
 ここに、水害の恐ろしさを後世に伝えるとともに、治水の重要性を銘記するものです。

 平成11年3月27日

 建設省京浜工事事務所
 狛江市

   
多摩川水害碑文   二ヶ領宿河原堰(にかりょうしゅくがわらぜき)

堤防を洗堀(せんくつ)した宿川原堰

堤防の決壊は、二ヶ領宿河原堰の左岸取付部から始まった。取付部は
本堤防よりもはるかに低い河川敷にあるのだが、洪水が河川敷まで
上がった段階で、取付部上流側の小堤防が崩壊。この小堤防は
河原の児童遊園地やテニスコートを守るための内堤防で、
流水を堰の方向に導流するためのものだが、厚さも15cm程度
しかない植石コンクリート造りで強度も小さいもの。小堤防が崩壊すると、
左岸側への迂回流が生じて堰の左岸取付部を洗掘した。それによって
さらに大きな流速の迂回流を誘発する結果となり、河川敷が洗掘され、
それが進んで本堤防までも侵食するようになり、大水害につながる。
つまり、多摩川水害の原因は、二ヶ領宿河原堰が洪水の流れを阻害したこと。
せき止められた洪水が左岸河川敷の小堤防を破壊し、これによって大きな
迂回流が生じて本堤防に流れがぶつかり堤防を洗掘したことである。

   
   中之島の渡し跡
   
二ヶ領用水上河原堰(にかりょうようすいかみかわらぜき)   調布方面のながめ

   
 三沢川合流点にあるゲート 河川管理境界 

多摩川(二ヶ領用水上河原堰)から三澤川に進んで、川沿いに歩く。

   
三澤川と合流する川   三澤川と南武線鉄橋

   
府中街道沿いに立つ「菅(すげ)の六地蔵」 
第四地蔵堂 新しい像(左端) 古い像(右端)
第四地蔵二体の理由

多摩区菅の府中街道(川崎街道)を行くと、道沿いに点々と1体ずつ
合わせて6体のお地蔵さまが祀(まつ)られているのを見ることができる。
一般的に、「六地蔵というのは、人間が死ぬと六道(天上界・人間界・
修羅・餓鬼・畜生・地獄)のどれかにさまようとされ、この時、どこの道に
さまよっても地蔵菩薩が救ってくださるという日本独特の仏教信仰に
基づいたものだ。このことから、寺の入口や墓地の入口に
六体の地蔵がよく祀られている」とのこと。
菅の六地蔵は、菅地区の東西の入口に1体ずつ、その間に残る4体が
ほぼ等間隔に祀られている。また、地蔵は街道の方を向いて立ち、道の
両側に交互に置かれている。像は石製で、形は立像の丸彫り、高さは1m程
第四地蔵には、新旧2体が並んで立っている。
1961(昭和36)年、像が古くなって破損をしたため、新しく作り、
古いものを石屋の脇に放置していた。しかしそれではいけないと、
ちょうど開園した『民家園』内に移設したところ、地蔵尊のあたりで
交通事故などが頻繁に起こるようになった。そのため1982(昭和57)年
11月29日に『民家園』より返却 していただき、現在の場所に
戻したため、新しいものと古いものが2体あるらしい。

   
 菅の薬師堂  

この日の天気予報では、午後は天気が不安定で、雨が降る予報で、午前中は曇りだった。
しかし、雨が降ってきて、なかなか止まないので、とうとうコンビニで傘を買って、菅薬師堂に向かった。

菅の薬師堂は建久6年(1195)妻を亡くした稲毛三郎重成が、供養のために極 楽寺(現法泉寺)の堂宇として建立したものである。建久9年(1197)には源 頼朝と北条政子が善光寺詣での途中に立ち寄ったという。本尊は鎌倉期の木彫りの 薬師像であるが、一説には源義朝の側室で義経の母である常盤御前の守護仏という 話がある。なお薬師堂に伝わる獅子舞は由来は明らかではないが、明和8年(17 71)に獅子舞の復活興業を願い出た文書がある。毎年9月第二日曜日に薬師堂の 土俵で舞がある。 
   
菅の薬師堂の宝庫  長松寺(ちょうしょうじ)本堂

長松寺は、臨済宗建長寺派の禅寺で山号を延命山と号す。多摩川三十三霊場の第二番札所 になっている。

   
長松寺の御詠歌  長松寺の御詠歌 

札所:多摩川三十三観音霊場 二番
「流れ来る 大多摩川の 畔なる 恵みも深き 長松の寺」

   
 本堂の扁額「延命山」  萬霊塔の奥にキリスト教教会



水子地蔵尊