徳島城 

2019年11月27日


徳島で研修があり、学生時代の友達にも会うことができ、徳島城や鳴門を案内していただいた。

   
   

徳島まで羽田から飛行機に乗る。途中、ブロッケン現象がみられる。
写真に撮ってみたが、上手く撮れず。

   
   

   
 徳島空港 阿波踊りの像  

徳島空港で友達が待っていてくれて、研修が始まるまでの時間、徳島城に車で連れて行ってくれた。

   
城山の貝塚   

   
石垣   数寄屋橋

至徳2年(1385年)細川頼之によって築かれたのが始まりで、渭津城(いのづ)と呼ばれていた。
石垣は、青いゴツゴツした重厚な印象である。

   
 鷲の門(大手門)  

徳島城は、連郭式の平山城で、蜂須賀 正勝(蜂須賀 小六)の子の、蜂須賀家政
によって築城され1586年に完成。1873年の廃城令により、鷲の門を除くすべての
建築物が撤去された。その鷲の門も空襲により焼失しましたが復元。
現在残っているものに石垣・堀・庭園がある。
徳島城跡の入口(大手)は南東方面になる。鷲の門は、脇戸付きの薬医門で、
パンフによると将軍より賜った鷲を飼うための門だったという。
城跡碑が、内堀脇に立っている。

   
鷲の門説明版   下乗橋

鷲の門の説明版には、1989年の徳島市政100周年記念として、
市内在住の個人(!)から復元寄贈されたものという。
下乗橋は、今は石橋であるが、当時は木造の太鼓橋で、この橋の手前で
馬を降りないといけなかったことから「下乗橋」と呼ばれる。
この下乗橋を馬に乗ったまま渡れることができたのは、藩主と
産婆さん(一刻を争うため)のみだったという。

   
   

   
初代 阿波藩主の蜂須賀家政公の銅像   

   
   

   
   

   
   

奥に見える高い木はホルトノキと呼ばれる樹木で、天守跡に生えていることから「徳島市の木」となったという。

   
本丸に建つ清玄坊   

本丸跡は広い広場になっていた。礎石など何も残っていないが、パンフによると
往時は御座敷や御留守番所、角にはいくつかの櫓が建っていたとのこと。
天守はここではなく、東二の丸にあった。
蜂須賀氏がここに築城した際、立退きに応じなかった清玄坊を呼び出して
暗殺したところ変事が続発、清玄坊の祟りだと供養する石碑を建てた。

   
弓櫓跡   西二の丸跡

城の北側を流れる助任川(すけとうがわ)と南側を流れる寺島川を天然の堀として機能させていた。
城山の山頂に本丸を建て、そこを中心に東二の丸、西二の丸、西三の丸が配された梯郭式の
城郭構造になっている。西二の丸跡は、鉄砲櫓等が立っていたようである。

   
 帳櫓「とばりやぐら」跡 徳島城博物館 

帳櫓は、礎石と思われる石が並んでいた。
徳島城博物館に入る。100名山のスタンプを押した後に、ガイドさんの
説明を聞いた。とても詳しく説明していただいた。同僚は、ガイドさんが
元教員だったかもしれないという。確かめていないのでわからない。

   
   表御殿庭園

   
  長さ10mの橋 

庭園で、まず目につくのは、長さ10mの自然石で出来た橋