富岡製紙場 

2015年6月11日


   
製糸場入口  製糸場入口 

富岡製糸場は、1872(明治 5)年に明治政府が殖産興業政策にもとづき設立した製糸場(繭から生 糸をつくる工場)。

日本初の本格的で大規模な器械製糸工場。 国中に近代的製糸技術を広める模範伝習 工場として設立。

後に民営化され(三井家→原合名会社→ 片倉工業)、1987(昭和 62)年の操業停止 まで 115 年間一貫して生糸を製造。

フランス技術を導入した富岡製糸場の生糸の大量生産は、養蚕・製糸・織物にかかわる一連の絹産業を発展させ、

その技術が海外に輸出され世界の絹産業の発展を支えてきた 。

   
  東繭倉庫 

東繭倉庫の建物は、木で骨組みを造り、柱の間に煉瓦を積み上げて壁を作る「木骨煉瓦」という工法で建てられている。

   
  明治5年の表札 

当時の工場立地の条件は 養蚕が盛んで、原料の繭が確保できる、土地が広い、外国人に対する住民の理解がある、

水利が良い、燃料の石炭が高崎から採取できる、などの条件が満たされていた。

   
れんが積の説明   検査人館

検査人館は、生糸の検査などを担当したフランス人男性技術者の住居として建設された。

   
 女工館 女工館

女工館は日本人工女に器械による糸取の技術を教えるために雇われたフランス人女性教師の住居として建設された。

ベランダの天井にはいたが格子状に組まれ、当時の日本建築にはない特徴がみられる。

労働時間は1日約8時間で、週休1日のほか夏冬に各10日間の休暇があり、食費や寮費などは製糸場が負担していたとのこと。

創業3年目には早くもポール・ブリュナを解雇(高額な給与が問題視されていた。再契約はなく明治9年に帰国)

当初は官営で超ホワイトな企業運営のため、女工たちは、準公務員あつかい。ところが、経営は悪化。

8年後には事実上の経営破綻となって売りに出される。現在我々が目にする富岡製糸場は、三井、原、片倉という

民間企業の手を経た姿。明治26年に民間に払い下げられてからは、労働時間が長くなるなど環境は悪化したが、

「女工哀史のような過酷な環境ではなかったようだ」と文化庁関係者は話をしているとのこと。

   
 操糸場  富岡製糸場・繰糸場内部

操糸場は、繭から生糸を取る作業が行われた場所である。操業当初はフランス式の操糸器300釜が設置された。

小屋組には「トラス構造」という従来の日本にはない建築工法を用いている。そのため、建物内部には中央に

柱のない広い空間が保たれている。さらに採光のための多くのガラス窓や、屋根の上には蒸気抜きの

越屋根が取り付けられた。現在は、昭和40年代以降に設置された自動操糸機が保存されている。

   
昭和40年代以降に設置された自動操糸機  ガイドの説明 

   
 屋根はトラス構造  繭から糸を取り出す写真

白い木造建築の操糸場だ。内部は天井を高くすることによって広い窓を可能にし、壁の色のせいもあって日中は照明がなくても充分に明るい。

   
   

フランス人技術指導者ブリュナが明治8年に帰国した後も、明治政府は日本人独自の技術革新を進め世界一品質の良い

絹生糸を生産し貿易輸出の主役品目としたのです。昭和62年の操業停止までの115年の歴史を考察しながら見学するのも宜しいでしょう。

   
ブリュナ館   

建設を指導したのがフランス人の生糸検査技師、ポール・ブリュナ。日本人女性の体格に合うように改良したフランス製の機械を導入した。

日曜日は休日で、年末年始と夏季にそれぞれ10日間の休みがあった。1日当たりの労働時間は平均8時間程度。

電気がなく、日光を取り入れて作業していたためだ。採光のためのガラスもフランスから輸入した。

したがって、製糸場の就業環境は女工哀話に聞かれるような悲惨なものとはまったく違い、

医療施設や教育まで行っていた近代的な工場経営だったようである。

   
  診療所と寄宿舎 

場内の併設された診療所と寄宿舎。診察料や薬代は工場が負担。明治期から工女たちへの福利厚生は近代的

   
城内の案内図   

東繭倉庫 内部一階にはガイダンス展示や売店がある。富岡製糸場の歴史などの紹介。その他映像コーナーもあった。

   
   

   
フランス式操糸器(復元機)実演  フランス式操糸器(復元機)実演 

明治五年当初に使われていたフランス式繰糸器(復元機)の実演が、東繭倉庫で行われていた。

繭から糸を引く「座操り」の実演がされていたのである。

   
 フランス式操糸器(復元機)  操糸作業の写真

   
富岡製糸場入口