鳥取城 

2017年11月10日


鳥取城は、標高263mの久松山に築かれた山城。久松山の山頂と山麓に城郭が築かれ、
戦国時代の戦闘・防備を重視して山頂に築かれた山城(山上の丸)と、麓の近世城郭の平城(山下の丸)
からなる複合的な城郭。つまり、戦乱の時代に山上の丸と近世の山下の丸が一体となった複合的な城跡


吉川経家公像と久松山(きゅうしょうざん) 吉川経家公像

鳥取城の歴史は、因幡を統治した山名氏の出城として、1545年(天文14)に山名誠通(やまなのぶみつ)が
久松山に築いたと伝わる。天正4年(1576)足利氏最後の将軍足利義昭が織田信長に追われて毛利氏の
もとに落ち延びると、信長は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)を総大将に任じて中国攻めを命じる。天正8年(1580)の
鳥取城攻めでは山名豊国は秀吉の軍門に降ったが、家臣が山名豊国を追放したことから毛利氏は吉川経家を
鳥取城主とする。天正9年(1581)秀吉は2万の大軍で鳥取城を取り囲み、軍師黒田官兵衛の進言で
兵糧攻めの作戦をとった。このため鳥取城内では飢餓地獄に陥り、籠城4ヶ月にして吉川経家はついに
開城して自刃した。 慶長5年(1600)の関ケ原の合戦後、池田長吉が6万石で鳥取城主となると、城の中心を
久松山山麓に移して、4年がかりで城の大改築を行ない、ほぼ現在に伝わる鳥取城が完成した。
 元和3年(1617)姫路から池田光政が32万5千石で鳥取城主となり、城下町の整備を行なった。寛永9年(1632)
岡山城主の池田光仲が池田光政と入れ替わって鳥取城主となり、以後光仲系の池田氏12代で明治維新を迎えた。

秀吉の鳥取城における兵糧攻めは実に周到なものであった。各地の商人に高値で米を買い占めさせ、
さらに吉川元春(毛利元就の次男)が海路で送ってきた兵糧米も待ち受けていた秀吉軍によりことごとく阻止され、
鳥取城は完全に孤立無援の状態となった。餓死者が出始めた鳥取城内は悲惨を極める。粟、稗から木の実、
草の根、馬、犬などありとあらゆる物を食い尽くした末に、死者の肉さえも奪い合う飢餓地獄と化した。
 鳥取城主の吉川経家はついに開城、自刃して果てた。秀吉が提示した開城の条件には経家の切腹はなかったが、
経家は敗戦の全責任を負って自ら死を選んだ。その死は毛利方はもちろん、信長・秀吉側からも称されたいう。

   
大手登城路跡 池田家の家紋 

解体中の橋の近くに、鳥取城復元整備計画の看板が立っていた。池田家の家紋が柵に貼ってあった。

   
 岡野貞一の音楽碑 中仕切門跡

岡野貞一の音楽碑が鳥取城の公園入り口にあり、ボタンを押すと何人かの有名な歌手が歌った
曲「ふるさと」が流れる。城門は1975年(昭和50)再建。宝珠橋から二の丸に至る途中にある。

   
 二の丸の石垣 二の丸跡 

   
   三階櫓台

三階櫓台は、一階八間四方、二階六間四方、三階四間四方の櫓が建てられていた。元禄5年(1692)に山上ノ丸の
天守櫓が焼失した後は、この櫓が鳥取城を象徴するものとなり、明治12年の解体撤去までその偉容を誇った。
この二ノ丸三階櫓台の上に三階櫓が建っていた。二ノ丸の一番外側に一段高く積まれていた。鳥取城の天守は
山上にあったが1692年に落雷で焼失し、その後はこの二ノ丸三階櫓が天守代わりだったということである。

   
 三階櫓跡  仁風閣と鳥取市街

   
菱櫓台  菱櫓跡

   
   

   
八幡神社  天球丸の丸巻石垣 

八幡神社は、二ノ丸裏手にあり、この奥に山上ノ丸へ続く「中坂」と呼ばれる登城道がある。
天球丸の周囲の石垣には巻石垣と呼ばれる「亀の甲羅状」(というかほぼ球体)の特徴的な石垣が復元されている。
天球丸の一番奥から下を覗き込むと、そこには巨大な丸い石垣がみえる。 

   
 時代の異なる建物跡 天球丸跡 

時代の異なる建物跡は、石垣修理で見つかった天球丸三階櫓と武具櫓の出土状況を再現している。

山頂の「山上の丸」を目指して、歩く。結構急な登りで、登山だねと話をしながら登る。

   
山上ノ丸跡  山上ノ丸・本丸跡 

   
山頂からの眺め 砂丘  山頂からの眺め 

山頂からの眺めは、鳥取砂丘や日本海が見ることができて、展望がよい。天気がよいと大山も眺めることができるとのこと。

   
 山上ノ丸・天守跡からの眺望 天守櫓跡 

   
本丸から望む鳥取平野  山上ノ丸・天守の石垣

   
 本陣山の説明 本丸から望む本陣山 

本陣山は秀吉が鳥取城に攻め込んだ時に本陣が築かれた山で太閤ヶ平とも呼ばれている。

   
「お左近」の手水鉢   二の丸石垣群

「お左近」の手水鉢写真。上方の右、丸くえぐれた石は、近世城郭としての鳥取城の基礎を築いた池田長吉の子、
池田長幸夫人の 侍女・「お左近(さご)」の手水鉢(神前、仏前で口をすすぎ、身を清めるための水を確保するための器)を
石垣に築きこんだもので、このことにより難工事であった三階櫓が無事に完成したと伝わる。

   
 「池田光政展−殿、国替えにござります」  城下町絵図

播州・姫路城から国替えによって因幡・伯耆の2国に入府した池田光政(1609〜82年)の事績やゆかりの品を
紹介する「池田光政展−殿、国替えにござります」が、鳥取市の鳥取県立博物館で開かれていたので、入ってみた。
光政が因幡・伯耆の藩主になってちょうど400年となることから企画している。因幡と伯耆を一人の大名が
治める鳥取藩32万石の枠組みは、このときに初めてスタート。この領域を現在の鳥取県がほぼ引き継いで
いるという意味で、400年前の国替えは、今につながる歴史的な出来事のひとつといえる。
池田光政は、一般には備前岡山藩主として、庶民教育のために閑谷学校を開設した業績が知られている。
その一方で、光政が鳥取藩主であったことなどは、その治績は、わずか15年余りの短い統治だったこともあって、
十分に認識されてこなかった。しかし、この期間には藩政の中心を担う所在地(居城)の決定、
鳥取城の改修、城下町の拡張と整備など、みるべき業績をあげていたとのこと

   
マンモスの骨格標本  ダイオウイカ 

   
オオサンショウウオ   

自然常設展示室で飼育展示していたオオサンショウウオが、残念ながら6月に亡くなっていた。