鶴ヶ城と桜

2013年4月27日



   
鶴ヶ城と桜 

娘と福島に行くことになり、、岳温泉に泊まって、安達太良山に登ろうとしたら、強風と雪のため、

ゴンドラが動いていなかった。こんな日に登っても、上は何も見えないし、危険であるため、

登るのをあきらめる。そのまま、五色沼の方に行き、ビジターセンターに立ち寄る。

ビジターセンターでスライドを観ながら五色沼の説明を聞き、散策をしたくなったが、

雨が降っているので、ここでもあきらめて、会津の方に向かう。結局、ちょうど大河ドラマの

八重の桜が放映中で混みそうだからと敬遠していた鶴ヶ城に行った。流石ににぎわっていたが、

雨は止んで、見事な桜が城とセットで見ることが出来た。しかもボランティアガイドさんの話を聞きながら、

鶴ヶ城の周辺めぐりをした後に、天守閣の中に入った。ガイドさんからは会津の歴史などを詳しく説明し

ていただき、背景がよくわかり、石垣の種類や組み方にも工夫がなされていることなどを知って、なるほどと思った。

   
北側から見た鶴ヶ城  遊女石とボランティアガイドさん 

鶴ヶ城は至徳元年(1384)葦名直盛がはじめて館を築き、改修を経て天下の名城となった。

幕末の戊辰戦争で、幕府側の会津藩は「朝敵」とされ、薩長などの新政府軍の猛攻の前に籠城一ヵ月したが、

降伏をして、城は大きく破損をしたが、城は落ちなかった。

 しかし、新政府としては会津若松城をそのまま残しておくことは、反政府へのシンボルとなる恐れもあり、

また現実問題として被害が著しかったこともあったことから、明治7年に石垣だけを残して、天守閣その他の

建造物は取り壊される。今見る天守閣は、幸いにも古写真が残っていた

ことから1965(昭和40)年に鉄筋コンクリート及び一部木造で復元されたものである。

また、2001(平成13)年には、天守に続く南走長屋と干飯櫓が復元されている。

平成23年春には幕末時代の瓦(赤瓦)をまとった天守閣としてリニューアル公開された。

再建された天守閣の屋根を45年ぶりに葺き替え、それまでの黒瓦を赤にしたのである。

赤瓦は会津松平藩の藩祖保科正之公時代の慶安元年(1648)頃に葺き替えられたことが記録されている。

表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強度があり、会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えることができたようである。


地元では一般的に鶴ヶ城といい、地元以外では会津若松城と呼ばれることも多い。

昭和9年(1934年)、鶴ヶ城が国の史跡に指定され当時の文部省は、所在地名を登録名とした。

文科省は当時、城の名前を所在地名で表していたが、地元の人たちは今まで使っていた鶴ヶ城と呼ぶのである。

北側から見た姿は蒲生時代に構築された野面積(のづらづみ)の石垣の上に建てられた、五重五階の天守閣。

遊女石は、美しい遊女を乗せ、勢いをつけて石を運んだとも伝えられている。

   
 城をしたから見上げる。  石垣の組み方に工夫がある。

階段も段差になっている長さが異なっていて、外から走って攻めるのに攻めづらく工夫してあることを教えていただく。

攻めるときは下を見ていないので、攻めにくく段差の長さをあえて変えているのである。

   
 鶴ヶ城の前に伸びる走長屋 南側から見た鶴ヶ城と本丸御殿跡 


   
 桜並木 荒城の月碑の説明をしていただく 

荒城の月の歌碑の説明もボランティアガイドさんにしていただいた。

名曲『荒城の月』が鶴ヶ城と青葉城をモチーフに作詞されたことは土井晩翠氏を招いた、

昭和21年の音楽祭であきらかになった。

   
 荒城の月碑  荒城の月の歌碑


   
 大河ドラマで出演者が走った場所とのこと  本丸跡と桜

   
 茶室隣閣の門  当時の城の写真

茶室隣閣

天正19年(1591)2月28日、千利休が秀吉の怒りに触れて死を命じられ、千家が茶の湯の

世界から追放された折り、時の会津城主蒲生氏郷は利休の茶道が途絶えるのを惜しんでその子、

少庵(しょうあん)を会津にかくまい、徳川家康とともに千家復興を秀吉に働きかけた。

  その結果、文禄3年(1594)と推定される「少庵召出状」が出されている。
 
少庵は京都に帰って千家を再興し、千家茶道は一子、宗旦(そうたん)に引き継がれる。

 そののち宗左、宗室、宗守の3人の孫によって表、裏、武者小路の3千家が興される。、

かくまわれている間、小庵が氏郷のために造ったと伝えられているのが「麟閣」である。


   
観光客でにぎわう   鶴ヶ城の中の石垣

石垣の築き方が時代によって違っていて、年月が新しいほど、切り立ってきれいに積まれている。

鶴ヶ城の石垣を年代的に見ると、一番古いのが天守閣の石垣で、蒲生氏郷が築いたものといわれている。

専門的には「野面(のづら)積み」という石の積み方で、自然石を組み合わせて積み上げている。

   
鶴ヶ城の展望室からの展望 


   
天守閣から見る鉄門、南走長屋、干飯櫓(ほしいろ) 紙芝居「新島八重物語」 

大河ドラマ八重の桜のの主人公である新島八重の生涯を描いた紙芝居をしていた。語り部の迫力ある演出で演じる紙芝居である。

紙芝居をしていた場所は鉄門(くろがねもん)の真上にあたり、戊辰戦争時にはここが作戦本部という感じで、

松平容保もここに常駐していたそうだ。太鼓は観客がたたき、観客参加型の紙芝居であった。


「明日の夜は 何国の誰か ながむらん 慣れし御城に 残す月影」 この意味は、明日からはどこのだれが

眺めるのだろうかいつも見ていたこの鶴ヶ城の姿を」と書かれている。お城を開け渡すため、皆で廊下橋を渡って

三の丸に向かう時、背後の本丸から、入城してきた官軍の勝どきを聞き、その夜には会津藩の提灯が西軍のものに

変わっているのを見た八重が詠んだそうである。一ケ月の籠城後に、むなしく降伏しなければならなかった無念さがこめられている。

   
南走長屋  鶴ヶ城と桜 

干飯櫓(ほしいろ)は表門(鉄門)から続いており、帯郭と本丸を隔てる重要な位置にある。

表門を守り、体郭から本丸への敵の侵入を防ぐ要となっていたと思われる。

干飯櫓は鶴ヶ城にあった11棟の2重櫓のうち一番大きなもので文字通り、食糧庫に使われていたといわれており、

「干飯」は当時の保存食の一つで水やお湯で戻してすぐに食べることができたので、特に戦が起きた時などは兵士たちの

食料として重要であった。その 干飯櫓と天守閣に通じる鉄門を結ぶのが南走長屋で、主に武器などが置かれていた。

南走長屋は平成13年の春に完成。初の本格的復元建造物になっている。



   
   


   
   



   
鶴ヶ城   鶴ヶ城歴代城主家紋

鶴ヶ城歴代城主

1384(至徳元)年、蘆名直盛によって築城された黒川館を発祥とする。そして、1589(天正17)年に伊達政宗が蘆名氏を

滅ぼして黒川城を手に入れる。しかし、天下統一目前の豊臣秀吉には逆らえず城を取り上げられ、一年で召し上げられてしまう。。
 
 1590(天正18)年、豊臣秀吉配下の蒲生氏郷が城主になると、地名を若松に改称し、本格的な天守閣が建造される。

城は「鶴ヶ城」と呼ばれるようになる。蒲生氏郷の次は、その子である蒲生秀行が継ぐが、家中騒動を理由として92万石から

宇都宮18万石に移封され、代わって上杉景勝が120万石で春日山から入城。しかし、関ヶ原の戦いで石田三成に味方して

徳川家康に敵対したことから、米沢30万石に移封され、代わって再び蒲生秀行が入った。そして、次男の忠知は

伊予(愛媛県)の松山城に移封され、入れ替わりで松山から加藤嘉明が入封。その子である加藤明成によって、

現在見られる5重の天守閣への改築や、防御が手薄なエリアの石垣の大規模な整備、空掘を水掘に変えるなど城郭を整備。

 ところが1643(寛永20)年に加藤明成は改易され、江戸幕府第3代将軍徳川家光の弟である保科正之が、23万石で山形から入城。

これ以後、明治維新まで会津松平氏の居城となり、幕末には幕府方の中心として奮戦。戊辰戦争では、

会津戦争と別名がつくほど抵抗し、板垣退助率いる新政府軍と1ヶ月に及ぶ籠城戦を繰り広げた末に降伏したのである。。
 
 

   
 廊下橋と桜 桜の花びらの花紋 


大河ドラマ館が近くにあるというので、入ってみることにした。

館内では、ドラマで出てくる角場(射撃場)などを再現していた。

   
 八重の桜の看板の前で記念撮影 ドラマセット「北出丸」の再現


   
八重の桜の登場人物たち  大河ドラマ館入口 


新島八重物語の紙芝居も見ることが出来た。大河ドラマ館にも入ったので、新島八重づくしであった。

その日は磐梯山温泉ホテルに宿泊する。