上田城 

2019年8月11日

二ノ丸堀跡 信州上田おもてなし武将隊

午前中、小諸城をまわって、午後は移動して上田城を散策した。
上田市立博物館と上田城櫓共通観覧券を買う。
駐車場から二ノ丸堀跡を歩き、イベントをしている会場に着く。
天正11年(1583)に真田信繁(幸村)の父・真田昌幸によって築かれた
上田城は、千曲川の分流、尼ヶ淵(あまがふち)に面した堅固な立地にある。
第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られている。
しかし、真田氏の築いた上田城は慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後に破壊。
関ヶ原の合戦後破却された上田城は仙石氏が城主の時代に再建され、7基の櫓(やぐら)と
2基の櫓門が建てられた。明治維新後、西櫓1基を残しそのほかの櫓・櫓門は
取り払われた。城外に移築されていた2基の櫓は後に買い戻され、昭和18年(1943)から
24年にかけて現在の南櫓・北櫓として再移築。平成6年(1994)には東虎口櫓門が復元された。

   
   上田城東虎口櫓門

東虎口櫓門を間にはさんで、南櫓と北櫓がある。見学ができるようになっていたので、中に入った。

   
 駕籠 武者窓から下を覗く。 

真田信之の妻、大蓮院(小松姫、徳川家康の重臣で徳川四天王の一人、
本多忠勝の娘)が江戸から草津温泉に湯治に向かう途中で亡くなり、
その遺骸を上田まで運んだ際に使用された駕籠といわれている。
上田城は復興工事が始められたが、二年後の寛永五年に仙石忠政が病死し、
工事は中断。そのため、本丸については隅櫓が七棟と櫓門が二棟できるなど、
一応の体裁〔ていさい〕が整ったが、本丸・二の丸の中に御殿〔ごてん〕は造られず、
二の丸・三の丸については櫓や城門など、城郭らしい建物は全く建てられなかった。
江戸時代は平和な時代が続き、城郭は支配者の権力の象徴としての意味を
もっていただけだった。真田信之〔のぶゆき〕は上田城が壊されたあと、三の丸に
藩庁も兼ねた藩主居館(今の上田高校の所)を築いたが、これだけで十分だった。

   
上田城本丸模型  武者窓

上田城主の在城期間は真田氏が二代で天正十一年から元和〔げんな〕八年(1622)まで、そのあと
仙石氏が三代の間で宝永三年(1706)まで、それ以降が松平氏で明治の廃藩まで七代にわたる。
窓は「武者窓」という形式で、突き上げ戸が取り付けられており、
棒で突き上げてすばやく開けられるようになっている。

   
  矢狭間  鉄砲狭間

狭間(さま)(矢・弾丸を放つための窓)は、いずれも下方の敵を狙いやすいように
低い位置に開けられている。縦長の矢狭間と、正方形に近い鉄砲狭間がある。

   
  石おとし場 

   
堀   幸村の鹿の角がある赤兜

大坂夏の陣において幸村は奇襲部隊を赤備えで統一し最後の戦いに挑んだ。(眞田の赤備え)

   
絵馬がかけて並んでいる   北櫓

真田昌幸の上田城は堀と土塁が防備の中心で、石垣はなかったとみられるが、
仙石氏再建の上田城では本丸・二の丸の入口部分に石垣が築かれた。これは
大部分が「打ち込みはぎ」という、ある程度加工して積みやすくした石を使う方法がとられている。

   
 眞田神社拝殿 眞田 井戸

学問の神として有名な真田神社。上田城本丸跡にあり、多くの参拝客で賑わっていた。
真田氏・仙石氏・松平氏という歴代の上田城主を御祭神として祀っている。
案内板によると井戸からは抜け穴があって、城北の太郎山麓の砦に通じていたということである。

   
 西櫓  本丸跡

西櫓は寛永3〜5年(1626〜1628)にかけて仙石氏によって
建てられた、上田城で江戸時代から現存している唯一の建物。

   
北西隅櫓跡   本丸の堀

北西隅櫓も本丸に7棟あった二層の隅櫓のひとつ。明治維新後に
民間に払い下げられ、その後解体されている。