山形 

2021年7月24日

   
山形城三の丸土塁跡  山形城南門入口 

山形新幹線で新庄から山形まで乗り、降りる。ホテルの近くを歩いていると、
山形城三の丸土塁跡があった。山形城は、本丸・二ノ丸・三ノ丸からなる三重の堀と
土塁を持つ城郭。三ノ丸は、明治時代以降、ほとんどの堀と土塁が壊され市街地化
しているが、唯一当時の姿を保っているのがこの「山形城三ノ丸土塁跡」
次の日の朝、山形城址に向かった。
二の丸南側に公園の入り口があり、外堀と枡形虎口の跡が残っていた。
二の丸の外堀は、途中で石垣から土塁に変わっている。

   
 南門入口 石垣の崩落跡

山形城は最上義光の居城として知られ、最上氏が転封された後も
鳥居氏や保科氏など徳川家の有力大名の居城であった。

   
本丸一文字門跡   

本丸一文字門は、枡形と呼ばれる広場を中心に、一文字櫓、櫓門、高麗門、枡形土塀及び石垣で構成された枡形門である。

   
本丸一文字門   

   
発掘された本丸井戸   

   
山形市郷土館   

「旧済生館本館」は、明治11年9月に竣工した擬洋風の病院建築物。
最初は県立病院として使用され、その後、明治21年に民営移管となり、
明治37年からは市立病院済生館の本館として使用された。
創建当時は医学校が併設され、オーストリア人医師・ローレツが
近代医学教育の教鞭をとったことでよく知られている。
医学資料・郷土資料等を展示している。山形県の初代県令三島通庸が
明治11(1878)年に建設し、昭和44(1969)年に霞城公園へ移築復元した。

   
 三層楼  回廊

外観は3層だが、ベランダが4つあることからもわかるように、内部は4階建てである。
14角形の回廊でドーナツ型をしていた。
8つの部屋に分かれており、それぞれ診療室などに利用されていた。

 
 
   


   
県立博物館 玄関  


   
ヤマガタダイカイギュウの骨格標本   

ヤマガタダイカイギュウは約 9 00万年前の海に住んでいたほ乳類。
海牛類の進化を知る上で世界的に貴重なもの。昭和53年、当時
小学6年生の2人により大江町用の最上川川床で発見された。

   
縄文の女神 (正面) 縄文の女神(右側面) 

縄文の女神は、高さ45cmと見つかっている完形土偶の中で最も大きい土偶。
重さは3.155kgとちょうど新生児の重さと同程度。
頭部は半円形に丸くなり、複数の孔(あな)が開けられている。眼・鼻・口の表現がないのが特徴。
W字のシャープな胸、尖ったような腹、どの部分も洗練された形をしている。また、お尻は後ろに
突き出ており、その形から「出尻形土偶(でっちりがたどぐう)」と呼ばれている。
すそ広がりの脚の底面は少しえぐって、焼むらを抑えようとしている。

   
 国宝指定書  

   
   


   
   

   
二の丸跡   最上義光公 騎馬像

おおよその城郭構造の基礎は、最上義光の時代につくられ、鳥居忠政の時代に現在の形に整えられたものである。

   
二の丸東大手門(復元)   渡櫓

東大手門櫓が公開されていたので、中に入って、ボランティアガイドさんに
山形の歴史などの説明を聞いた。最上義光公の騎馬像は二本足で立っており、
高度な技術が必要であり、銅像の中では、評価が高いといわれた。

   
 二の丸東大手門 文翔館 

山形県郷土館(愛称「文翔館」)は、1916年(大正5年)に建てられた英国近世復興様式の
建物で、1975年(昭和50年)まで県庁舎及び県会議事堂として使用されていた。

   
正庁  バルコニーからの眺め 

バルコニーからは七日町大通りを見ることができる。
2階のテラスベランダから見下ろす山形市の道路で、花笠音頭のメイン道路

   
 正庁 当時の文翔館前  貴賓室

   
  知事室 るろうに剣心の撮影現場 

   
銀行出納係(旧会計課)  中庭 

昭和初期の銀行出納係の様子を、職員を想定して製作した人形と、修理した
古い家具で再現した部屋。奥の男性職員は課長という設定で、
女性職員と話をしている。左の男性職員はソロバンで計算をしてい

   
旧県会議事堂  山形花笠まつりの衣装 

帰りは文翔館前の中央通りを歩いて、山形駅に向かう。
山形から新幹線に乗って、帰路につく。

   
山形駅  米沢牛弁当 

帰りは、山形駅で米沢牛弁当を買って、新幹線で食べる。