山中城 

2016年1月17日

 
岱崎出丸入口から見た三の丸跡広場  

山中城は、小田原に本城をおいた後北条氏が、永禄年間(1560年代)小田原防衛のために創築した城である。

天正17年(1589)豊臣秀吉の小田原征伐に備え、急ぎ西ノ丸や出丸等の増築が始まり、1590年(天正18年)

の3月29日、城の増築が未完成なまま7万もの豊臣軍の侵攻を受け、わずか4,000の後北条軍は

耐え切ることができず、山中城は半日で落城。
 

   
  三ノ丸掘 (空堀)

山中城では、曲輪の四周は大体堀で囲まれている。城内の各曲輪を囲む堀は、城の縄張りに従って掘り割ったり、

畝(うね)を掘り残したりして自然地形を加工していたのに対し、三ノ丸堀は自然の谷を利用して中央に縦の畝を設けて

二重堀としている。堀の深さと幅とは地形と曲輪の重要度に深く関連している。

城の内部に敵が進入するのを防ぐため人工的に土地を深く掘り下げたものが堀である。

   
 三ノ丸掘  田尻(たじり)の池

山城では、水を貯える施設が城の生命であるところから、この池も貴重な溜池の一つであったと考えられる。
 
しかも、西側は「馬舎(うまや)」と伝承されているところから、この池は馬の飲料水・その他に用いられたものと推定される。

   
西の丸の土塁   二の丸大規模工事中

   
 二ノ丸虎口と架橋(かけはし)  

山中城の堀に、石垣が用いられていないということは大きな特色である。

ここは堀底に近いが、400年前はローム層が露出し、もっと急斜面であった。

   
   

   
   

   
   

   
  西ノ丸 

西の丸は3400uの広大な面積をもつ曲輪で、山中城の西方防備の拠点である。

   
西ノ丸畝掘   西ノ丸から富士山

堀内には、ほぼ9m間隔に8本の畝が、堀の方向に対して直角に作られている。

畝はローム層を台形に掘り残して作ったもので、高さは堀底から約2m、頂部の幅は約0.6m

.で丸みを帯びている。山中城の土は粘土質のローム土ですので、とても滑りやすかったのである。

西ノ丸に登ると、富士山がよく見えた。西櫓も見えたので、一回下りて、西櫓にも向かった。

 
 西ノ丸から西櫓 障子掘り 

障子堀は西ノ丸・西櫓一帯の周囲をぐるりと囲むように造られている

   
後北条氏の角馬出   史跡 山中城阯石碑

「後北条氏の角馬出(かくうまだし)」説明板。2つの虎口(入口と出口)を持つ広場のことを「馬出」と呼ぶ。

主に武田氏は丸く馬出の土塁を造ったので「丸馬出」、対する後北条氏は四角く造ったので「角馬出」と

一般的には呼ばれているらしい。西櫓の角馬出では、 周囲には土塀が築かれていた。防御する時は

西ノ丸の虎口を中心に、攻撃に出る時には掘りの外側の広場(西櫓)を起点として、堀の南端の

土橋と北端の木橋を用いる。この馬出の築城により、攻める機能と守る機能が明らかに区分された。

西櫓跡の一番奥に「史蹟 山中城址」の石碑あり。

   
 西櫓台からの眺め 西櫓と西ノ丸間に残る障子堀 

   
   西ノ丸掘

   
北ノ丸跡   天守台跡

天守櫓は、標高586m、山中城第一の高地に位置している。

天守は独自の基壇の上に建てられており、この基壇を天守台という。

   
本丸跡  畝堀 

本丸は、標高578m、面積1740u、天守櫓と共に山中城の中心となる曲輪である。

堀に対して直交に設けたものを畝堀という。

   
本丸掘りと櫓台  箱井戸跡 

   
 山中城主の墓  豊臣方の先鋒・一柳直末の墓

三ノ丸跡の宗閑寺の敷地内にある、山中城落城の際に命を落とした武将の墓。

左に後北条氏の家臣・間宮康俊や山中城主・松田康長らの墓が、右に豊臣方の先鋒・一柳直末の墓が並んでいる。

   
宗閑寺  芝切地蔵尊 

宗閑寺は、浄土宗の寺院で、間宮豊前守(間宮康俊)の女・お久の方が開基したと伝えられている。

   
箱根旧街道   富士山

箱根旧街道は、延宝8年(1680)に初めて石だたみが敷かれ、文久2年(1862)に大改修された。

   
すりばち曲輪付近から見返した岱崎(だいさき)出丸  岱崎出丸から富士山の眺め 

岱崎出丸 は、天正17年(1589)秀吉の小田原征伐に備えて、各曲輪の修築と共に、この出丸の増築を始めたが、

短期間のため完成できず、中途で放棄したようすが、発掘の結果諸所にあらわれたとのこと

   
すり鉢曲輪  寒ざらし団子 

売店で、食事をして、寒ざらし団子を食べた。上新粉を冬場の寒気にさらして作ったことからこの名がついたといわれる。