2022年9月24日
吉野ヶ里歴史公園 |
吉野ヶ里遺跡は、佐賀県神埼郡の旧神埼(かんざき)町・旧三田川(みたがわ)町・
旧東脊振(ひがしせふり)村の3つの町村にまたがった我が国最大の遺跡ある。
弥生時代の前期〜後期までを通じて、ムラからクニの中心集落-みやこ-へと発展
していく過程が明らかになった遺跡である。弥生時代700年間の移り変わりを知ることができる。
南内郭入口(東側)門に設置した鳥形 |
弥生時代後期に成立した大規模な環濠の内部に環濠を巡らせる2つの区画が存在する。
この区画のうち、北側にある区画を北内郭、南側のそれを南内郭と呼ぶ。
南内郭は、平成元年に環濠集落として報道された区画で、弥生時代後期後半に成立し
終末期に規模を拡大して掘り直される。環濠の一部を半円形に4ヶ所に張り出し、
そこに物見櫓とみられる掘立柱建物が配置される。
有柄銅剣 甕棺から出土したもの | 首の無い遺体 |
甕棺に葬られた人々の中には頭部がないもの、肩や腕に刀傷(かたなきず)を
受けた跡があるもの、腹部に10本もの矢を打ち込まれているものなど、
当時の社会の様子を知る手がかりとなるものが見つかっている。
日本列島で戦争が始まったのは弥生時代である。故佐原眞さん(国立歴史民俗博物館館長)は、
弥生時代の石鏃と縄文時代のそれを比較して、 「紀元前1世紀前後になると
急激に石鏃が重くなり、殺傷力が増す」と、初めて戦争の物証を明らかにした。
弓矢の向かう方向が動物から人間に変化した瞬間だという。
吉野ヶ里遺跡 発掘物語 | 物見櫓 |
物見櫓は環壕が外に張り出している部分が4ヶ所あり、ここで見つかった高床の建物
弥生時代の機織り機 |
南内郭は、高階層の人々の居住区と考えられます。南内郭西方に存在する大規模な高床倉庫群と
目される多数の掘立柱建物跡は、その規模や構造から「市」の存在も推定される。
このように、弥生時代終末期にはクニの中心集落へと発展した姿を読み取ることができる。
主祭殿 | 主祭殿2階 |
北内郭は、内部に中期の墳丘墓に南面する祭殿と推定される大型建物を含む
掘立柱建物跡が存在するなど、司祭者の居住や祭祀の場と考えられている
主祭殿は吉野ヶ里のクニ全体の重要な事柄を決める会議を行ったり、
祖先の霊への祈りや祀りを行ったりした、中心的な建物と考えられる。
主祭殿2階では、吉野ヶ里のクニ全体の重要な祀りが開かれており、
吉野ヶ里の王やリーダーたち、さらには周辺のムラの長が集まっていた。
主祭殿3階 |
主祭殿3階では、祖先の霊のお告げを聞く祈りを行っています。
この結果は従者によって2階で会議を行っている王やリーダーたちに伝えられる。
甕棺[かめかん]とは北部九州に特有の棺のこと。
大型の素焼きの土器に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、
土の中に埋める埋葬方法で、弥生時代中頃のおよそ200年の間、
盛んに使われていたようである。
北墳丘墓 | 墓道 |
墳丘墓に眠る祖先の霊に毎日お供え物を捧げ、お祈りをするための施設と考えられている。
墓道は墳丘墓に眠る祖先の霊にお参りするために環壕の外からやってくる
人々のために設けられた専用の道であると考えられている。
祖霊の宿る柱 |
北墳丘墓の正面にある長い柱を「立柱」と呼んでいる。祖先の霊が宿る柱
と考えられており、シンボル的な役割を果たしていたようである。
立柱の穴跡は径1.4〜1.8m、深さ1.1mでした。このことから、
立柱の径は50p、地上部は概ね7mであったと推定される。
北墳丘墓は、弥生時代の吉野ヶ里集落の王達が埋葬されている特別なお墓と考えられており、
外観は往時の墳丘墓のまま復元し、内部は発掘時の本物の遺構と14 基の大型甕棺を見ることができる。
甕棺に埋葬された弥生人 |
北墳丘墓は発掘当時の状態を保存し、一般公開している。南北40m、東西27m、
高さ4mの盛土をして築かれた2100年前のお墓で、14基の甕棺が見つかっている。
館内に置かれている甕棺は本物で、その中の1つからは把頭飾銅剣と
ガラス管玉が発見され、共に大変貴重なことから国の重要文化財に指定されている。
発見された把頭飾銅剣 |
ガラス管玉 | 甕棺のイメージ展示 |
甕棺[かめかん]とは北部九州に特有の棺のことである。大型の素焼きの土器に
亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法で、
弥生時代中頃のおよそ200年の間、盛んに使われていたようである。
北墳丘墓入口 |
、中期初頭から成人用の甕棺墓が数多く営まれるが、中期の600メートルに及ぶ長大な
列状の集団墓地などとともに、首長層を埋葬したと考えられる大規模な墳丘墓が存在して、
銅剣やガラス製管玉、絹布片などが出土し、階層分化と首長権確立のありさまを示している。
発掘された甕棺 | トイレのマーク |
佐賀牛 |