深大寺城周辺 

2015年2月14日

深大寺城跡に行き、深大寺で、そばを食べて、深大寺周辺を歩いた。

   
水生植物園   深大寺城跡

最初に水生植物園を歩き、水生植物園の丘を上がっていくと、深大寺城跡がある。

深大寺城跡は、関東平野南部に広がる武蔵野台地の南縁辺部の標高約50mを測る舌状台地の一角に所在する、

16世紀前半、関東の覇権を争う北条氏と上杉氏の攻防のなかで、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏が

築造した戦国時代の城館跡である。これまでの調査で、3つの郭を直線上に配置した連郭式縄張の中世城館

であることが明らかになっている。1524年に北条氏綱に江戸城を奪われた扇谷上杉朝興は、江戸城奪回の長年の夢を果たせず、

1537年4月に河越城で病死。わずか13歳で家督を継いだ息子の朝定は、父の意志を継ぎ、江戸城を奪回するための

前進基地として、多摩川を挟んで北条方の小沢城に対峙する深大寺の地にあった「ふるき郭(古城)」を数ヶ月で再興。

しかし同年7月、氏綱は深大寺城を攻めずに朝定が居城する河越城を直接攻めたため、そのまま廃城となった。

   
 建物跡の説明 石柱の周りで遊ぶ 

二の郭は広場になっていた。

   
空堀と土塁  二の郭を囲む土塁

子どもたちは、広場や空堀で遊び、走り回っていた。

   
広場にそびえる大きな木  そば作りの実演 

昼は「深水庵」で、深大寺そばを食べる。

   
 水車小屋  動力

粉挽き小屋には水車を動力にした杵や粉挽きの臼と水車の動力を伝えるカラクリ仕掛けの歯車がみられた。

   
 大黒天と恵比寿尊  深沙堂

深沙堂(じんじゃどう)は、昭和四十三年(1968)に再建されたもので、正面二間半、奥行き三間半一一間は約1.8m)、

入母屋(いりもや)造り銅板葺き、妻入り。正面に向拝(ごはい)がある。

   
深沙堂の説明  延命観音 

深大寺の寺号も、深沙大王に由来し、今、深沙堂に祀られる像は、高さ57cmほど、どくろの胸飾りをつけ、

象皮の袴をはいて忿怒の形相すさまじい鎌倉時代の優作ですが、秘仏として、長いあいだ拝されたことがないそうです。

   
延命観音  延命観音

昭和四十一年秋田県象潟港工事の際、ちょっとした事故がありその処理のため海底の大石を引上げたところ、

偶然、何かが彫刻してあるのを見つかる。後に慈覚大師自刻の延命観音とわかり、縁あって翌年、深大寺に奉安された。

 
 山門  水子地蔵

   
本堂   ムクロジ

深大寺は正式名称を天台宗別格本山浮岳山昌楽院深大寺という。

深大寺という名は,水神の深沙大王に由来しており,奈良時代,天平5年(733)に満功上人が開山したといわれている

   
 元三大師堂 賓頭盧尊(びんずるそん) 

元三大師堂に安置されている賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)。

釈迦の弟子で賓頭盧尊(びんずるそん)。通称「おびんずる様」と呼ばれ、堂の前に置かれている 「なで仏」で、

病んでいる部位をなでると除病の功徳があるといわれる。お釈迦様が在世のころ、特別の神通力の持ち主であった

賓頭盧尊者が、その神通力を世の人々に自由自在に誇示して見せたので、お釈迦様がお怒りになって、

「お前は究極の悟りを得ず、この世にとどまって仏法を守り、人間の病を癒し、多くの衆生を救いなさい」と命令された。

尊者はお釈迦様の言葉を守り、今に至っても人々を救う菩薩である。

   
 釈迦如来像  開山堂

釈迦如来像(白鳳仏)は、全高83.9p、坐高59.3pと大型の金銅仏で、重要文化財に指定されています。

開山堂は、昭和五十八年の開創1250年大法会記念事業として新築された奈良時代様式の堂宇。

本尊に薬師如来三尊(薬師如来、脇侍に弥勒菩薩千手観音)を安置、開基満功上人、天台宗一祖恵亮和尚の尊像を祀っている。

   
中西悟堂像  フラッシュモブ 

最後は神代植物公園近くの自由広場に行く。自由広場でフラッシュモブが開催されていた。第九の演奏と合唱が響き渡った。