2011年3月10日
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尾崎咢堂記念館
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南高尾の中沢山に登って、下ってきて、政治家尾崎咢堂の記念館に寄り、見学した。
この記念館は、津久井が生んだ平和主義者・尾崎行雄の偉業を後世に残すために、
生誕から10歳まで過ごした代々の屋敷跡に昭和32年(1957年)に建設された。
尾崎行雄は安政5年(1858年)11月20日、彦四郎行正と貞の長男として生まれ、
明治元年に上京するまでこの地で過ごした。中沢山に登った記録は こちら
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資料館入口
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咢堂像
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「憲政の神さま」といわれた尾崎行雄(雅号:咢堂)は、1887年12月、保安条例により東京退去を命じられ
海外(米国・英国)に渡るが、国会開設(1890年)とともに三重県より立候補し衆議院議員に選ばれ、
以来、議席にあること63年(連続当選25回)、世界議会史上の記録を打ち立て、憲政発展のために尽くした。
軍部の反動の嵐の中で幾多の辛酸をなめながら憲政の発展に心魂を捧げてきた。
軍国主義が一世を支配するに及んでも平和の信念を曲げず、軍縮を説き単身全国遊説を始めて、
国論に警告することをやめなかった。そして晩年は、廃藩置県ならぬ廃国置州という考えに基づく
「世界連邦」の建設を提唱した。(享年95歳)。
咢堂(がくどう)とは、尾崎行雄の雅号(ペンネーム)である。尾崎は青年時代、
「学堂」と名乗って執筆活動をしていた。若くして自由民権運動に身を投じたが、
政府の発した保安条例によって東京退去を命じられた時に、
愕然としたことから「愕堂」と改める。そして50歳頃より、りっしんべんを取って「咢堂」とした。
尾崎の思想の中核には、二つの「フセン」があるとも言われる。つまり「普選」と「不戦」である。
普通選挙に基づく民主政治の確立と、軍縮・世界平和の実現を目指したのである。
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咢堂の生涯96年間の貴重な写真や文書、遺品などが数多く保存・展示されている。
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咢堂肖像画
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記念館の資料室内。正面の咢堂肖像画は赤松麟作画伯が昭和3年帝展に出品した作品。
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短歌
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